ダットサン サニー

ダットサンサニー
ダットサンサニー 昭和41年(1966年)

我が家にも、マイカー。

昭和41年(1966年)生まれの小型乗用車サニー。初代サニーは排気量1000ccで、日本のコンパクトカーの先駆け的存在である。ちなみに当時は、日産サニーではなくダットサンサニーだった。日産サニーとなったのは5代目で、昭和56年(1981年)。1960年代〜70年代はダットサンだったわけだが、当時はブルーバードやフェアレディにもダットサンが付いていた。

ダットサンは、日産自動車が戦前から使っていたブランド名で、昭和生まれの人々にはとても馴染みがあった。また、昭和30年(1955年)から34年(1959年)まで生産されていたダットサン110型や210型も好評だったため、日産としては認知度の高いこのブランド名をサニーにも使うこととしたのだろう。

ダットサン112型
ダットサン112型
110型はトヨタのクラウンの初代RS型と同年、同月に発売。その110型の改良版が112型だ。毎日デザイン工業賞を受賞しているが、その受賞理由は「日本の貧乏を肯定した健康的なデザイン」だった。
Mytho88, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
ダットサン211型
ダットサン211型
210型は新たな1000CCエンジンを搭載し、ダットサン1000という名前で発売された。日産の乗用車として初めてアメリカに輸出された車でもある。その210型のデザインに一部改良を加えたのが211型だ。
TTTNIS, CC0, via Wikimedia Commons】

サニーはスマートでシャープなスタイルが印象的で、上の写真にある112型や211型のずんぐりとした形と比べてもわかるように、当時としては現代的なかっこいい車でもあった。そして、この初代サニー、ダットサンサニーこそが、日本の自動車の歴史の大きな転換点ともなるのである。

モータリゼーションの進展が、サニーを生んだ。

ヨーロッパでは1960年代の初めごろ、新しい庶民向けの車、いわゆる大衆車が次々と生まれていた。戦後15年が過ぎ、モータリゼーションが急速に進展しておりコンパクトで堅牢しかも庶民が購入しやすい車が求められていたのだ。この時期、ドイツではオペルカデットAが、フランスではルノー4が、イギリスではオースチンミニが、そしてイタリアではフィアット500(チンクチェント)が生まれている。

オペル・カデットA
オペル カデットA
1962年から販売されたオペルの大衆車。見た目がサニーに似ているが、デザインや一部の機構がサニーに影響を与えたと言われている。
Lothar Spurzem, CC BY-SA 2.0 DE, via Wikimedia Commons】
フィアットNuova500
フィアットNuova500
チンクチェントとも呼ばれるかわいい車。1957年から販売された。アニメのルパン三世の愛車としても有名で、日本でもファンが多い。
SurfAst, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】

東京オリンピックが終わり、全国の主要道路が舗装され、高速道路の整備が進み始めた昭和40年代、日本にもモータリゼーションが押し寄せてきていた。また、高度経済成長の波に乗り、新三種の神器と呼ばれた“3C”、カー・クーラー・カラーテレビがもてはやされたのもこの頃である。つまり、日本でも大衆車を世に出すための下地がこの時整っていたのである。

こうした時代の流れの中で、昭和41年(1966年)にサニーが登場する。新発売にあたってはこれまでになかった車、これからの庶民の車という訴えを行う必要があった。世の中では“3C”がもてはやされていたものの、まだまだ乗用車の購入は敷居が高かったのである。

静岡県の県政ニュース「高速時代」
昭和44年(1969年)に制作されたニュース映像である。東名高速道路の開通の様子が取り上げられている。まだ自動車の数は少ないが、庶民が自動車を所有し、気軽にドライブを楽しめる時代になっていたことがわかる。

日産が仕掛けたキャンペーンとは。

そこで日産が打ち出したのは「新発売の車に名前を付けてください」という車名募集キャンペーンだった。当選者にはサニーの新車がプレゼントされた。しかも、日産は車名の募集とともに広告で新しい車の性能や概要を少しずつ公開してゆくという方法をとった。これをティザー(焦らす)広告という。

車の車名募集キャンペーンは、実は日産が最初ではない、昭和36年に登場したトヨタパブリカも新発売に当たって車名を募集した。しかし、車名募集というとサニーのキャンペーンがよく取り上げられる。これは、当時の日産が新聞を始め雑誌やテレビなどさまざまなメディアで大々的に広告を展開したからだろう。

このように派手に広告を展開したこともあって、昭和41年1月末の車名募集の締切までに850万通にも上る応募があり、車名は「サニー」に決定。サニーとは文字通りには「陽当りがよい」とか「陽気な」という意味だが、資料によれば「明るく快活で若々しい新型車のイメージにふさわしい」という理由で選ばれたようである。2月には東京都立体育館で車名の発表が行われ、4月には全国発売される。

サニーのカタログ動画
昭和41年のダットサンサニー1000のカタログ。最初の見開きページに「サニー!この名は永遠に…史上最大のご応募850万通の賜ものです。」と出てくる。その他にも、この車に対する当時の日産の力の入れようがわかる。貴重な資料である。

この車名募集キャンペーンだが、よく考えると結構タイトなスケジュールだ。1月末に応募を締め切り、2月に車名を発表し4月に発売なので、その間ほぼ3ヶ月。850万通もの応募を確認し、車名を決めるだけでも結構な作業である。また、決まった車名のロゴの作成やポスター、広告、カタログなどの製作、印刷などにも時間がかかると思うのだが・・・。募集の前からすでに名前は決まっていたのだろうか?

車を持つことのイメージを変えた。

しかし、そんなことよりもこのキャンペーンでまず重要なのは、850万通もの応募があったということだ。それだけこの車に対する一般の関心が高かったことを物語っている。さらに、一般公募で名前を付けるということで、身近さもアピールできた。

このキャンペーンにより、自動車は一般家庭でも所有できるものなのだというイメージを人々に持たせることができたのである。しかも実際にサニーは40万円台という低価格で販売された。国税庁のデータによると、昭和41年のサラリーマンの平均年収は54万8千円となっている。当時のサラリーマンの年収以下の金額でサニーは買えたのだ。

サニーは、消費者に好評をもって迎えられた。発売から1年も経たないうちに月間国内登録台数1万台を達成する。時代がすでに求めていた車ではあったが、日産の話題作りは、人々の自家用車に対するイメージを変え、販売に結びついたのだ。

しかし、この成功を他のメーカーが黙って見ているはずはない。同じ昭和41年(1966年)の11月にはトヨタからカローラが発売される。

トヨタカローラ
トヨタ カローラ
サニー発売と同じ昭和41年(1966年)に発売されたトヨタの大衆車。
サニーとカローラの比較
サニーとカローラ
2台の側面を並べてみた。上がサニーで下がカローラである。サニーの方が少しスマートに見えるが基本的に同じスタイルである。

CS戦争が勃発。マイカー元年。

トヨタカローラといえばサニーのライバルとして有名だ。この後、対抗するように排気量、室内の広さ、車種バリエーションなどを競うことになる。広告合戦も熾烈で、カローラが「プラス100ccの余裕」とやればサニーは「隣りのクルマが小さく見えます」と返した。

CS戦争当時のCM
昭和43年(1968年)のカローラ1100のCM、それに続いて昭和45年(1970年)のサニー1200のCMを見ることができる。その他にも60年代から80年代までの自動車のCMが収められている。

トヨタと日産の販売合戦と言えばブルーバードとコロナのBC戦争が名高いが、この時はCS戦争と呼ばれた。しかし、この戦争のおかげで日本のモータリゼーションは大きく進展したのも事実である。CS戦争が勃発した昭和41年(1966年)は、マイカー元年とも呼ばれている。

新三種の神器だの3Cだの言われても、当時の一般庶民にとって、マイカーの所有はまだ夢のようなことでもあった。でも、ダットサンサニーの登場によって、それは夢ではなく現実のもの、手の届くものとなったのである。

そしてこの頃から、休日になると自家用車で観光地に出かける人々のことをマイカー族と呼ぶようになる。