トヨペット クラウン

トヨペット クラウンRS41  昭和37年(1962年)

「いつかはクラウン。」

クラウンは、言わずとしれたトヨタの高級セダン。日本の高級車の代名詞とも言える車だ。昭和30年(1955年)に初代が出され、現在も販売されている。そろそろ発売70年を迎えようとしているロングセラー車でもある。

純国産車を目指した初代クラウン。

初代クラウンは、アメリカ車の影響を多分に受けていたが、設計も製造も純国産の車として登場した。当時の日本の自動車メーカーでは、性能のよい外国車を海外メーカーのライセンスを得て国内生産するという形が多かったが、クラウンは純国産にこだわった。

まだ未舗装で悪路の多かった日本の道路に耐えられるような車を目指したのだ。また、戦後10年経ち「もはや戦後ではない」を具現化した日本製の車を作りたい、という理由もあっただろう。

初代クラウン
初代クラウン
昭和30年(1955年)にデビューした最初のクラウンRS型だ。純国産の乗用車を目指した。
初代クラウンのデザイン
初代クラウンのデザイン
丸みを帯びたボディ、後部にはテールフィンなど、当時のアメリカ車の影響が見られる。

そんなクラウンを人々は大いに歓迎した。昭和30年代の写真や映像を見ると、クラウンがよく登場する。タクシーやパトカーなど公共の車にも多く使われ、当時の日本を代表する車となった。だが、クラウンのすごいところは、この後各社から多くの車が登場する中で、その地位を確立してきたところだろう。日本の高級車という地位である。

クラウンと言えば、やはりあのフレーズ。

クラウンと言うと「いつかはクラウン」というキャッチフレーズを思い出す。このキャッチフレーズが使われたのは、7代目のクラウンだ。7代目と言うと、昭和58年(1983年)発売である。デビューから30年近くも経っているが、まさにこの言葉は、人々の持つクラウンのイメージを的確に表現する名コピーとなった。

初代クラウンは、基本的に日本の道に合わせて作られた国産乗用車というのが“売り”であった。しかし、クラウン以外の様々な国産車が発売されるようになってくると、つまり国産があたりまえになってくると、新たな“売り”が必要になってくる。

そこで、クラウンが選んだのは、高級車というコンセプトであった。クラウン(王冠)という名前からして、既に高級イメージではあったが、クラウンは単なるお金持ちのための高級車ではなく、ある程度地位のある人が乗る高級車というコンセプトだ。

このページの最初に掲載したクラウンは、昭和37年(1962年)デビューの2代目クラウンである。この2代目クラウンから、車に王冠のエンブレムが付けられるようになる。また、「いつかはクラウン」のイメージが読み取れるCMが流されるようになるのもこの2代目からである。

2代目クラウンの側面
2代目クラウンの側面
初代に比べてだいぶスマートになっている。また幅も広く、車内空間にゆとりがある。
2代目クラウンの前面
フロントグリルの中央に王冠のエンブレムが初めて付けられた。

2代目クラウンのCMの一つを紹介しよう。そのCMは、外国からのお客様を父と娘がクラウンで羽田空港まで迎えにゆくというシチュエーションだ。娘はクラウンを運転しながら「父の自慢のクラウンで」と語る。とてもこの頃の一般家庭の情景ではない。大きな会社で地位のある父親の自慢のクラウンなのである。父親役は山村聡だ。山村聡といえば会社の重役や政府の高官などの役柄が多い俳優である。そして、CMは最後に「誇りを持って乗れる車です。」と締める。

このCMからは、会社の重役や社長など社会的に地位を持った人が乗れる車、それがクラウンというコンセプトが読み取れる。こうしたコンセプトづくりを重ねた結果、20年後の7代目のクラウンで「いつかはクラウン」のキャッチフレーズが生まれた。

この言葉には、あなたもいつかはこの車に乗れるようになるとの訴えがある。この車を手に入れた人は、「ああ、俺もクラウンに乗れるようになったんだ」と感慨深く語るのである。

歴代クラウンCM集
最初に登場するのが本文で述べた2代目クラウンのCMである。このあと山村聡は6代目までずっと登場。また5代目では、吉永小百合も出てくる。
なお、7代目クラウンの「いつかはクラウン」もこの動画には収録されている。
2代目クラウンのCM集
2代目クラウンの性能や運転のしやすさを紹介したり、有名人が登場してクラウンを語ったりなど、バリエーション豊かなCMが作られていた。
後に総理大臣にもなった大平正芳氏も登場。いつかは総理大臣も夢ではない!

高度成長期ならではの、夢の車。

これは、昭和30年代半ばから40年代半ばまで、つまり1960年代から70年代はじめまでの日本の経済状況抜きには成立しなかったコンセプトではないだろうか。当時の日本は高度成長期。戦後は終わり、給料は倍増する勢いで好景気が続いていた。若者も学校を卒業し大きな会社に入れば年功序列で出世できた。仕事をうまくこなしていれば、係長、課長、部長、重役と地位が上がっていったのである。

ということは、誰でも「いつかはクラウン」という夢を持てたのである。まさにアメリカンドリームならぬジャパニーズドリームが持てた時代であるからこそ成立したのであり、クラウンは夢の車でもあった。

1960年代の東京の風景
当時のニュース映像を編集した動画である。街を走るクラウンが多数登場する。クラウン以外にも懐かしい車が出てくるが、やはりこの頃の街はクラウンが多い。

しかしよく考えてみると、「いつかはクラウン」がCMで流れたのは昭和58年(1983年)。80年代のはじめである。当時の状況はどうだったのだろう。

70年代半ばのオイルショックにより右肩上がりを続けてきた日本経済も低成長時代を迎える。80年代に入ると自動車や家電などの輸出で経済は潤ったものの円高不況となり苦しんだ時代だ。こんな時代に「いつかはクラウン」である。

少しズレているように見えるが、不況を乗り超えもう一花咲かそうというトヨタ自動車の思いが感じられる。皆を励ましているようである。事実この少しあと80年代半ばからは日本はバブル景気に突入する。いつかはクラウンをすぐに実現できそうな状況になってゆくのである。バブルではあるが・・・。

やはりクラウンは日本の高級車だ。

もちろん現在は時代が違う。さまざまな状況がからみあい、手放しで好景気に沸くという時代は過去のものである。会社も年功序列ではなく能力主義だ。だまっていても自動的に出世してゆけるという社会ではない。

しかし、こんな時代ではあるが、今もクラウンは存在する。セダンと言うよりも新しいクラウンはSUVが主流だそうだが、この高級車はやはり今の人の心も捉える何かを持っているのだ。

もちろん、クラウンは性能も居住性も日本の高級車としての水準以上のものを持っているのは確かである。でもそれ以上に、クラウンは日本人の心に今も「いつかはクラウン」と言うサクセスドリームを送り込んでいるのである。