メルセデスベンツ 150

メルセデスベンツ150スポーツロードスター
メルセデスベンツ150 スポーツロードスター 1935年

ドイツの自信を形にした車だった。

1934年から1936年にかけて作られた2シーターの車、メルセデス・ベンツ150。スポーツロードスターという名前も付いている。

しかもこの車は、RR、つまり後部に搭載されたエンジンで後輪を駆動させるリアエンジン・リアドライブの車である。RRのため前にラジエターグリルは無く、3つのヘッドライトが印象的なデザインとなっている。同じくRRのセダンタイプ車であるメルセデスベンツ130に続いて作られた。

横から見たメルセデスベンツ150
横から見たメルセデスベンツ150
当時の普通の車とは異なり、前が詰まって後ろが長い。不思議な形だ。
メルセデスベンツ130
メルセデスベンツ130
150の前に作られたセダンタイプのRR車。
Norbert Schnitzler, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】

リアエンジン・リアドライブのサラブレッド。

ガソリン自動車が作られるようになった頃、車の駆動方式は多くがRRであった。技術的な問題もあって、駆動させる後輪の近くにエンジンを置いた方が作りやすかったのだ。

それが、技術の発展に伴い前輪の近くにエンジンを置いて後輪を回す方が安定して走ることが分かり、FRつまりフロントエンジン・リアドライブが普通となったという経緯がある。

しかし、1920年代から1930年代にかけて、エンジンをフロントから再びリアに持ってくる試みがなされるようになった。それは当時の流線型車両の流行とも関係があったのだろう。空気抵抗を減らす流線型にするには、前ではなく、後ろにエンジンを積んだ方が都合がよいというわけだ。

後輪の近くで後輪を回すRRは、この後ドイツの国民車とも言われたフォルクスワーゲンビートルやポルシェなどに採用されている。そう言えば、日本の最初の国民車であるスバル360もRRである。

メルセデスベンツ150を紹介する動画
当時の車体やシャーシの写真も見ることができる。

しかも、メルセデスベンツ150は、リアエンジンとは言うものの正しくは後輪と座席の間、車体の中央付近にエンジンがあった。いわゆるミッドシップだ。

ミッドシップと言えば、早く、安定して走ることができる車であり、革新的な技術を詰め込んだものでもあった。当時の販売資料の中でも「サラブレッドスポーツカー」とされ、その技術力の高さが強調されていた。また、全体の流線型のフォルムに加え、長く、尖ったテールやスペアタイヤをサイドに取り付けるといった粋なデザインも見事である。

なぜこの時期にロードスターを出したのか。

この車はスポーツロードスターとも呼ばれたが、そもそもロードスターとは何か?それは、屋根のないオープンカーのことである。しかも、最初からオープンとして設計されている車のことだ。

ゆえに、2シーターのロードスターとは実用車ではない、いわば遊び車である。1930年代には、メーカー各社からロードスターが出されていた。事実ベンツでも、1934年に強力なエンジンと最新装備を搭載したメルセデスベンツ500Kを登場させ、好評を博していた。

メルセデスベンツ500K スペシャルロードスター
オランダのラウマン自動車博物館に展示されている500K。この車はFR(フロントエンジン・リアドライブ)車であるため、メルセデスベンツ150に比べ運転席は後ろの方にある。
Alf van Beem, Public domain, via Wikimedia Commons】

では、ベンツはRR車の開発にあたり、セダンタイプのメルセデスベンツ130に続き、高性能な遊び車であるメルセデスベンツ150をなぜ出してきたのだろうか。そこにはベンツの、いやドイツとしての自負があったのではないだろうか。

この車を見ていると、第二次世界大戦時のドイツの航空機を思い出す。メッサーシュミットやハインケルなど、高い技術に裏打ちされたエンジンを持ち、質実剛健な中にも粋を感じさせるデザインの名機が多い。

ドイツは第一次世界大戦で敗戦国となり、急激なインフレに苦しんだ。この車が登場した1930年代のなかばと言えば、敗戦国であるドイツが国力を蓄え、再び世界と対等に渡り合おうとしていた時期でもある。

ドイツはこの時期、最新の技術や工業力を結集させて軍用の車両や航空機を開発、製造した。そこには、ドイツの回復した自信も見える。

クラシックカーフェスでのメルセデスベンツ150
この動画で動く姿を確認できる。キーンという音とともに走り去る姿がいい。

メルセデスベンツ150を生み出した技術やデザインにもその流れの一端が現れているようだ。ドイツは、1935年にヴェルサイユ条約の軍事制限条約を破棄し再軍備を始めるが、メルセデスベンツも軍用の車両やエンジンの生産を行うようになる。

150は、まさにその頃に作られた車でもある。もちろんこの車は軍用車両でないが、こんな時代の空気の影響を受けて開発、製造されていたのである。

庶民の自動車所有を進めようとしたドイツ。

当時のドイツの首相でもあったアドルフ・ヒトラーは、自動車に注目していた。1933年、ベルリンモーターショーにおいて自動車道路の建設と庶民向けの自動車の製造を進めることが国家の防衛力を高めると演説。

これによってアウトバーンの建設や、フォルクスワーゲンタイプ1いわゆるKdFワーゲン(後のビートル)の開発が始まった。そして、アウトバーンもビートルも、戦後のドイツやヨーロッパのモータリゼーション発展に大きく貢献してゆくことになる。

1943年のアウトバーン
1943年に撮影されたアウトバーン
コンクリート舗装道路が続く様子が捉えられている。走っているのはKdFワーゲン(後のビートル)である。
Bundesarchiv, Bild 146-1979-025-30A / UnknownUnknown / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons】
アウトバーンの起工式
アウトバーンの起工式
1933年に行われた起工式の様子。ヒトラーが演説している。
Bundesarchiv, Bild 183-2006-0613-500 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons】

この時期は、いわばモータリゼーションの萌芽の時代でもある。その中でメルセデスベンツが、こうした高性能な車を開発し、売り出したことは注目に値する。バラ色の車社会がメルセデスベンツには見えていたのだろう。

誰もが生活の役に立つ車を持てるなら、生活に華を添えるこんな遊び車も必要なのだと考えたのかもしれない。いずれにしてもメルセデスベンツ150は、当時のドイツの技術者、開発者の自信が形となったドイツらしい遊び車であり、その点で、人々の記憶に残る名車となったのである。

メルセデスベンツ150は値段が高いこともあって、早くも1936年には製造中止となってしまった。だが、この車の持つRRのメカニズムは、後にヒットしたフォルクスワーゲン・ビートルにもしっかりと受け継がれている。

復元された150
復元されたメルセデスベンツ150
メルセデスベンツクラシックセンターで1934年発売当初の姿に復元された。
Mercedes-Benz USA, LLC., CC0, via Wikimedia Commons】