スバル 1000

スバル1000
スバル 1000 昭和41年(1966年)

「スバリスト」は、この車から。

コンパクトで側面のラインがスマートな車。空気抵抗を考えたのだろうか、ヘッドランプとラジエターグリルが車体の内側に引っ込んだデザインが面白い。スバル 1000である。

スバルと言えば、日本最初の大衆車と呼ばれヒットした軽自動車スバル360を思い出す。そのスバル360を生んだ富士重工業の最初の小型普通車である。登場したのは昭和41年(1966年)で昭和44年(1969年)まで生産されていた。

スバル1000のスタイル
スバル 1000のスタイル
コンパクトで、側面のラインがスマート。ラジエターとヘッドランプのデザインが特徴的で、この当時の日本車の中では個性的である。
スバル1000 4ドアセダン
スバル 1000実車
昭和41年に登場したスバル1000 4ドアセダン。2005年の東京モーターショーで展示された時の写真である。
No machine-readable author provided. Mytho88 assumed (based on copyright claims)., CC BY-SA 2.5, via Wikimedia Commons】

知る人ぞ知る車だった。

昭和41年(1966年)とは、日本のモータリゼーションの歴史の中では特別な年だ。ダットサンサニーが登場し、その後トヨタカローラが登場。一般庶民が気軽に自家用車を購入し、ドライブを楽しむようになったきっかけの年、いわゆるマイカー元年である。

その年に登場したスバルの小型車というわけだが、販売網が充実しマスコミ広告を連発できるトヨタや日産とは対抗できるわけもなく、それほど大きな話題にはならなかった。

しかし、この車スバル 1000は、知る人ぞ知る車であった。当時としては新機軸の機構を搭載していたのである。

まずエンジンが普通ではなかった。それは、エンジンのシリンダーが上下ではなく左右に動く水平対向エンジンである。コンパクトで重心が低く、航空機やレースカーなどでよく使用されていたエンジンでもあった。コンパクトでも大きな力を出すことができたのである。

ビートルの水平対向エンジン
水平対抗エンジン
フォルクスワーゲン ビートルに搭載されていた空冷式4気筒水平対向エンジンのカットモデル。シリンダーが左右に付いている。
bukk, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
グライダーに積まれたスバルの水平対向エンジン
スバルの水平対向エンジン
スバルプレンという名のモーターグライダーに搭載された水平対向エンジン。これはスバルのEA52型エンジンで、スバル1000のエンジンを流用したものである。
photo: Qurren (talk) Taken with Canon IXY 430F (Digital IXUS 245 HS), CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】

FFの量産化を実現した。

スバル1000は、このエンジンをボンネットに搭載し、前輪駆動とした。つまり、フロントエンジン、フロントドライブのFF車としたのである。

FFは現在では普通の機構であり、乗用車の多くがFF車である。しかし、当時はまだ日本の自動車メーカーは、量産車に搭載できるほどの安定したFFの機構を実現できてはいなかった。しかし、スバル1000ではその課題に敢えて挑戦した。

この車の開発の前にヒットしたスバル360は、RR車つまりリアエンジンの後輪駆動であった。富士重工業はエンジンの近くにある車を回す方が効率がよく、故障も少ない、そんな考えを一貫して持っていたのかもしれない。

スバル 1000カタログの動画
昭和43年(1968年)版のカタログを紹介する動画である。「アイデアに富むざん新なメカニズム」とスバルの技術の高さを語り。FFによって広くなった室内空間を見せている。

いずれにしてもFF車とするために水平対向エンジンを採用し、当時の最新のジョイント機構を導入。さらにはブレーキやサスペンションにも工夫を施すことによって、他の有力メーカーが当時なし得なかったFF車を実現してしまうのである。

これによってスバル1000は、室内を広くとることができ、1000ccの小型車ながら1500ccの中型車クラス並みの室内空間を確保することができた。また、同時に静かさや振動の少なさ、さらには運転のしやすさや乗り心地の良さなども実現することとなったのである。

スバル 1000のCM
「日本人の設計によるジェット機、特急車両」というアナウンスから始まり、スバル1000が高度な技術から生まれたと訴えている。高度経済成長の時代ならではの語り口が興味深い。
なお、この動画には昭和44年(1969年)発売のホンダ1300のCMも入っている。

スバルのルーツは戦前の航空機メーカー。

富士重工業は、もともと航空機のメーカーであった。大正6年(1917年)に創業した中島飛行機がルーツである。

昭和の戦前から戦中にかけて、日本の軍部は性能のよい航空機の開発を国内航空機メーカーに求め、それに応えて中島飛行機も「隼」や「疾風」、「鍾馗」など、名機と言われる戦闘機を製造した。また、日本初のジェットエンジン搭載機の開発まで行っている。

中島飛行機
大正時代の中島飛行機本社を撮影した写真。中島飛行機は、エンジンから機体までを一貫生産する世界有数の航空機メーカーであった。
See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons】
工場の様子
中島飛行機半田製作所の工場の様子。飛行機の組み立てが行われている。当時の中日新聞に掲載された写真。
中部日本新聞社, Public domain, via Wikimedia Commons】

こんな富士重工業の歴史が、スバル1000の製造にも大きく生かされている。搭載した水平対向エンジンも、もともと航空機でよく使われていたエンジンであった。航空機メーカーならではの発想で、効率的で乗り心地の良い小型車を開発したのである。

「スバリスト」になった元少年たち。

富士重工業の歴史は、この車スバル1000のヒットにも大きく関係している。自動車のファンは、いわゆる乗り物のファンでもあり、飛行機も大好きなのである。

富士重工業が中島飛行機であることを知っている自動車ファンは、「おお、これがあの中島の車か!」とスバル1000を支持することになった。当時の自動車ファンと言えば多くは30代から40代男性であるが、スバル1000が登場した昭和40年代初頭のその年代は、戦中は10代の少年である。

太平洋戦争中、日本の政府は優秀なパイロットを少しでも多く育てるため、20歳未満の少年を募集し訓練するという「少年航空兵」の制度に力を入れた。当時の少年たちは、そんな政策もあって飛行機に憧れたのである。中学校の校舎の壁にも「少年航空兵募集」のポスターが貼ってあったそうで、「いずれはお国のために飛行機に!」と誰もが思っていたのだ。

加藤隼戦闘隊の写真
映画「加藤隼戦闘隊」の一コマ
昭和19年(1944年)公開の東宝映画「加藤隼戦闘隊」のスチル写真。加藤隊長を演じる俳優藤田進と「隼」が写っている。軍国少年たちは、こんな英雄や飛行機に憧れたのだ。
東宝 (Toho), Public domain, via Wikimedia Commons】
航空兵と日の丸の絵が入った切手
少年航空兵を描いた切手
昭和17年(1942年)発行の普通切手。記念切手ではなく普通切手であることから、当時いかに航空兵への志願が奨励されていたかがわかる。
Carpkazu, Public domain, via Wikimedia Commons】

そんな元少年たちが大人となり、あの名機「隼」を生み出した中島飛行機が作った小型車に注目しないわけはないのである。しかも、「元中島の技術を結集した高性能車ではないか!」ということで、絶大の信頼を得た。

スバルはすごい、これぞ日本の技術、日本の小型車だというわけである。こうした人々が、信仰にも近いスバル熱を醸成させてゆく。つまり「スバリスト」の誕生である。

日本の大衆車の一翼を担うスバル1000。

こうした「スバリスト」たちによって、スバル1000は、昭和44年(1969年)3月には月に4000台を超える販売台数を達成。カローラやサニーに続く小型大衆車として、日本のモータリゼーションの一翼を担うことになる。

また、スバル1000のFFの成功がきっかけで、1970年代に日本の小型車のFF化が進んだとも言われている。

スバル 1000動画
小気味良いエンジン音を響かせながら走るスバル1000の動画だ。エンジンまわりの詳しい解説で水平対向エンジンのメリットも理解できる。

現在の富士重工業は車名をそのものズバリの株式会社スバルと変え、先進的な車を出している。しかも、充実した安全装備が売りである。FFと同じく、現在スバルが推進している車の安全化もこれからさらに日本車の標準的な技術として発展してゆくことになるだろう。

もちろん「スバリスト」もまだ健在である。戦中に少年だった人たちの世代は少なくなってはいるが、スバルの先進技術は新たな世代の「スバリスト」を生み出している。