戦争の時代が生んだ“モスクワっ子”。
1940年代によく見られたスタイルの小型乗用車だ。この車は、ソビエト連邦の車で名前はモスクヴィッチ。作られたのは1947年であるから、第二次世界大戦が終わって混乱も収まりつつあった時代である。上の写真は1949年に作られたガブリオレ、つまりコンバーチブルタイプである。
モスクヴィッチを作ったAZLK。
モスクヴィッチには“モスクワっ子”という意味がある。ソ連のユーザーを意識した名前で、“我らが車”といったイメージを持たせたかったのだろうか。製造したのは、ソ連の自動車メーカーAZLKである。AZLKの創業は1930年で、最初はアメリカのフォードA型やフォードAA型トラックのライセンス生産を行っていた。
フォードA型とは、一般庶民が自動車を持つきっかけとなったと言われているフォードT型の後継として作られた車だ。このA型もやはり庶民が購入し、安心して運転できる小型車としてヒットした。A型やAA型トラックは世界中でライセンス生産されたが、ソ連ではAZLKを始めとするメーカーが製造していたのである。
なお、AZLKはこの後、1930年代の終わりには自社で設計した小型車の生産も始めている。フォード車のライセンス生産からスタートはしたが、戦前から一貫して小型ファミリーカーの開発、製造を手掛けてきたメーカーでもあるのだ。
ある車にそっくりなモスクヴィッチ
モスクヴィッチ 400は、AZLKが戦後に最初に製造した車である。だが、このモスクヴィッチ 400、ある車に似ている、と言うよりもその車そのものである。その車とは、ドイツの老舗自動車メーカーオペルのカデットである。
カデットは、オペルが1936年にフォルクスワーゲンに対抗できる車として開発した意欲的な車だ。戦後の60年代〜70年代にはモデルチェンジを続けて、フォルクスワーゲンやドイツフォードの車と競合したドイツの大衆車でもある。
そのオペル カデットの初代とモスクヴィッチ400はうり二つ。これは何を意味しているのか。戦争、つまり第二次世界大戦が関係している。敗戦国であったドイツが戦勝国のソ連に戦争賠償として差し出したのがこのカデットだったのである。
戦争賠償とは、敗戦国が戦争による損害の賠償として戦勝国に支払う金品や資産のことで、敗戦国ドイツは、ドイツのリュッセルスハイムにあったオペルの工場の設備をソ連に賠償として差し出したのである。その工場では当時、1939年型の初代カデットを製造していた。
つまり、AZLKは、オペルが開発した製造設備を使ってカデットを製造し、自社ブランドであるモスクヴィッチで販売したということになる。オペル側としては無念だろうが、戦争に負けたのだから文句は言えないのである。
戦勝国のソ連側にも事情があった。
一方、AZLKは、戦勝国のメーカーではあるが、戦争で大きな被害を受けていた。乗用車を製造していた工場を戦争のために疎開させたが、その際に多くの製造設備を放棄しなければならなかったのである。ゆえに、オペルの製造設備があったおかげで戦後に自動車製造を再開できたという事情もあった。
また、AZLKは、終戦前の1940年にソ連初の小型車KIM 10の製造を始めていた。その車は、当時の計画によれば「国民の車」として全国の世帯に普及させるはずであった。つまり、ソ連のフォルクスワーゲンといった車になるはずだったのである。
ところがそのKIM 10は、戦争が激化すると製造中止となった。戦後、製造を再開しようとするが、ソ連の国内にはまともな製造設備が残っていない。そこに、オペルカデットの製造設備である。しかも、カデットは、KIM 10に似たデザインの車でもあった。当時は、カデットのようなスタイルが車両デザインのひとつの流行だったからだ。
ゆえに、「工場にオペルの製造設備を設置して車を量産しよう。しかもカデットはKIM 10に似ているではないか。」という話になるのは自然の流れである。AZLKとしては、いち早く製造を再開して多くの家庭にソ連製の小型車を届けたい、街に“モスクワっ子”をたくさん走らせたいと考えたのだろう。
モスクヴィッチもカデットも名車となった。
このようにして生み出されたモスクヴィッチ400だったが、やがてウッディーバンやコンバーチブルなど車種のバリエーションも増え、海外にも輸出されるようになる。すると、価格が安く、乗り心地もよいということでヒットし、当時のソ連の経済を支えることにもなる。そして、この後401、402、403と新型車が続々と投入されてゆくのである。
戦争という不幸な出来事がきっかけでソ連の名車ともなったモスクビッチ。もし戦争がなかったら、この車は生まれなかったのだろうか。いや、やはりAZLKは同様の小型車を作っていただろう。状況はどうあろうともユーザーの求めるものをなんとか作り出してしまう・・・共産圏であろうと自動車メーカーとはそういうものなのである。
一方、モスクヴィッチの元となったドイツのカデットはどうなったかと言うと、戦後すぐには製造できなかったものの60年代になると新生カデットを登場させる。そしてモデルチェンジを繰り返して、オペルの主要車種へと育ってゆくのである。
やはり、自動車メーカーはどこの国でもタフでしたたかなのだ。