マイカー元年の前に生まれたマイカー。
フロントからリアへのストライプが小粋な、イタリアンテイストの小型車。マツダ ファミリアである。上の車は、昭和38年(1963年)に登場した初代だ。ファミリアは、初代から平成15年(2003年)の9代目まで40年間も生産されていた。その名前が示す通り、家族でドライブを楽しむファミリーカーとして開発された車でもある。
この車、心臓部にはオールアルミ製のエンジンを搭載。これは、同じマツダの軽自動車キャロルにも搭載されていたが、軽量で冷却効果も高く、“白いエンジン”と呼ばれ話題となった。一般向けのファミリーカーではあるが、マツダ独自の技術を注ぎ込んだ車となっていたのである。
マツダは、戦前からの自動車メーカー。
ここで、マツダというメーカーについてまず考えておこう。マツダと言えば、広島に本拠を置く自動車メーカー。昭和59年(1984年)年まで東洋工業という名前だった。この東洋の名前は、あの赤ヘル軍団「広島東洋カープ」の名にも残っている。ファミリアが登場した昭和38年は、その東洋工業だった時代である。
東洋工業が創業したのは戦前。それも昭和の初期である。もともとコルクの板を製造していた会社だったが機械の製造を行うようになり、海軍関係の機械や部品の製造を始めた。広島にあるから近くの呉に海軍工廠がある。まさに地元の需要に合わせた機械メーカーだったわけである。
自動車の製造はまずオートバイからで、続いて三輪トラックの製造を始める。そして昭和10年代には四輪自動車の研究、開発まで行うようになる。昭和15年(1940年)には四輪車の試作車まで完成させていた。このようにマツダ―東洋工業は戦前から機械屋、技術屋であり、自動車製造のノウハウも蓄積していたメーカーであった。
昭和20年(1945年)の8月に戦争が終わると、東洋工業は、その4ヶ月後から早くも三輪トラックの製造を再開。急速に需要が高まる中、日本のオート三輪ブームを牽引するメーカーとなる。そして、昭和30年代には乗用車の研究、開発へと舵を切ってゆくのである。
ファミリアが登場した昭和30年代後半とは。
マツダ ファミリアが登場したのは、昭和30年代の終わり頃である。当時は、日本の高度経済成長も頂点を迎えていた時期だ。ファミリアが登場した翌年の昭和39年には東京オリンピックが開催され、庶民の生活も豊かなものとなっていた。
道路事情が格段に良くなってきていたのもこの頃である。オリンピック開催にあわせ日本各地の道路が舗装され、東京の首都高速も整備された。さらに、関西では日本初の高速である名神高速道路の一部も開通していた。
また当時は、一般庶民がまだ気軽に自家用車を持てるわけではなかったが、そんな時代が目の前に迫っているという期待も高まっていた。昭和30年代の初め頃、電化製品のブームがあり、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器と呼ばれたが、この頃になると新・三種の神器がもてはやされていた。それはカラーテレビ、クーラー、カーで、英語の頭文字をとって3Cとも呼ばれていた。
カー、つまり自家用車をわが家でもという気運が高まっていたのである。休日にはマイカーでドライブという夢は、もはや夢ではなく、現実のものとなってきていた。
ライトバンから販売を開始したファミリア。
昭和40年代を迎えると日本のモータリゼーションは急速に進み、昭和41年(1966年)にはダットサン サニー、トヨタ カローラが発売され、販売合戦、宣伝合戦を繰り広げた。この年から家庭の自動車保有台数が飛躍的に伸び、昭和41年はマイカー元年とも呼ばれるようになる。
ファミリアは、マイカー元年の3年前の昭和38年(1963年)にすでに発売されていた。しかし、サニーやカローラほど大ヒットはしていない。なぜだろうか。マツダでは、庶民が自家用車を気軽に購入するのはもう少し先と見ていたようだ。
マツダは、乗用車への本格参入に際し、普通車は時期尚早とし、まずは軽自動車を発売した。昭和35年(1960年)のマツダR360クーペ、続いて昭和37年(1962年)のマツダキャロルである。そして昭和38年(1963年)には、いよいよ普通車であるファミリアを発売するのだが、セダンからではなくライトバンから販売を開始する。
マツダは、普通車への参入に際し、ライトバンつまり商用車から始めたのである。一般の庶民に向けて乗用車を売り込む前に、需要の見込める商売用の車からというわけである。まずは安全パイを選んだのだ。
それでも、昭和39年(1964年)には完全な乗用であるファミリアセダンを発売する。ということは、マイカー元年である昭和41年の2年も前に、マツダはファミリー向けの普通乗用車を発売していたことになる。
カローラのライバルはファミリアだった?
トヨタでカローラを開発していた技術者が、「カローラのライバルとなるのはサニーではなくファミリアだ」と考えていたという話が伝わっている。ファミリアは一般庶民向けとしてそこまで完成していた車だったのである。
したがって、売り込みを掛ければマイカーとして大ヒットしたとは思うのだが、マツダはファミリアに対しカローラやサニーほど大々的な宣伝や販売促進を行ってはいない。
実は、当時のマツダは社運をかけたロータリーエンジンの開発を初めており、ファミリアの販売の方には力を入れられなかったという大きな事情があったようだ。
やはり当時のマツダ―東洋工業は、根っからの機械屋、技術屋だったのである。時代のニーズにあった車をヒットさせるよりも、まずは自らの技術力を発揮できる新時代の車を作ろうという方に目が向いていたのである。これはもう技術屋のサガと言うしかない。
しかしこんなファミリアも、17年後の昭和55年(1980年)登場の5代目で社会現象と言えるほど爆発的にヒットする。初代ファミリアは、やっぱりマツダが最初に考えた通り時期尚早だったのだ。