ダットサン フェアレディ

ダットサン フェアレディ
ダットサン フェアレディ 昭和37年(1962年)

戦後日本の、本格的スポーツカー。

ベーシックなスタイルの小型スポーツカー。日産自動車のダットサン フェアレディである。昭和37年(1962年)の発売だが、当時の日本車ではまだ珍しかったコンバーチブルモデルでもある。昭和30年代に、こんな純粋にドライブを楽しむための車が、日本でも生まれていたのだ。

日産のフェアレディと言えばあの名車フェアレディZを思い出す人も多いだろう。実はこの車は、フェアレディZの前身となる車である。ダットサン フェアレディは、昭和45年(1970年)まで製造が続けられたが、その前年の昭和44年(1969年)には後継車としてフェアレディZが発売されている。

日産のスポーツカー、その始まりは?

日産自動車のスポーツカー製造の歴史は古く、第二次世界大戦後の昭和27年(1952年)にはイギリスの名スポーツカーであるMGに似たダットサン スポーツ DC-3という車を発売している。

しかし、日産が本格的にスポーツカーを出したのは、昭和33年(1958年)の東京モーターショーに出品したダットサン スポーツ1000が最初で、翌34年(1959年)から発売を開始した。さらに、昭和35年(1960年)には車の排気量を1000から1200に上げ、名前も「フェアレデー」としたのである。最初はフェアレディではなく、フェアレデーと言ったのだ。何か時代を感じさせる。

ダットサンスポーツ DC3
ダットサンスポーツ DC3
イギリスのMGが1930〜40年代にかけて出したTシリーズに似ている。いかにも戦前の車というスタイルでもある。
I, 天然ガス, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
ダットサンスポーツ1000
ダットサン スポーツ1000
全体的に丸みを帯びた車体で、ライトとボディが一体化したポンツーンスタイルである。DC3と比べるとだいぶ現代的だ。でも、少し古いイメージも感じられる。
Tennen-Gas, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】

このフェアレデーが初代であり、全体的に丸く、少しクラシックなイメージの車となっている。まだこの頃は、スポーツカーを日本の一般庶民に売るのは難しく、ほぼアメリカへの輸出用自動車でもあった。

そして、このページの最初に掲載した写真の車が二代目で、この車から「フェアレディ」となる。昭和37年(1962年)から輸出用に加え日本国内向けのモデルも販売された。

ダットサン フェアレディのスタイル
ダットサン フェアレディのスタイル
ダットサン スポーツの改良版だったフェアレデーとは異なり、フェアレディは新たにデザインされた車だった。低重心で車幅も広くなり、安定感が増した。また後部には速さをイメージさせるテールフィンも付いている。当時の流行だったのである。

フェアレディという名前はどこから?

さて、フェアレディであるが、日本人にとって馴染のあるこの名前はどこから来ているのだろうか。それは、ミュージカルの「マイ・フェア・レディ」である。昭和34年(1959年)、当時の日産の社長が渡米した際にブロードウェイで「マイ・フェア・レディ」を見て、それに感動して付けたと言われている。

「マイ・フェア・レディ」は、ロンドンの下町の花売り娘イライザが音声学者のヒギンズ教授から上流階級の話し方を教えられ、レディに仕立て上げられるという話である。当時のブロードウェイでヒットし、ロングランが続けられていた。後にオードリー・ヘップバーン主演で映画化されアカデミー賞も受賞している。

下町訛り丸出しの花売り娘が、社交界にデビューできるレディへと成長していくストーリーに、日産のスポーツカーもイギリスやアメリカの車に負けない車になるぞという自らの決意を重ねたのだろうか。

マイ・フェア・レディの宣伝写真 教授とイライザ
ミュージカル マイ・フェア・レディ
1956年初演で、1962年に閉幕するまで2717公演というヒット作となった。右側の教授役はレックス・ハリソン、花売り娘のイライザ役はジュリー・アンドリュースである。なお、日産の社長が見た1959年は、この二人は演じていなかったようだ。
Richard Maney/Photo by Friedman-Abeles, NYC, Public domain, via Wikimedia Commons】
タイムズスクエアの写真
マイ・フェア・レディの看板
ニューヨーク・タイムズスクエアの夜景である。奥にMy Fair Ladyの文字が光っている。写真の撮影時期は1965年2月であり、この看板は、当時ヒット中だった映画のマイ・フェア・レディである。奇しくもこの時期、車の方のフェアレディは、和製スポーツカーとして大ヒットしていた。
Jim Evans, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons】

フェアレディの車としての完成度は?

ブロードウェイでヒットを続けていたミュージカルから名付けられたダットサン フェアレディだが、ここで車としての完成度にも目を向けてみよう。実際にオープンスタイルの小型スポーツカーで世界的に有名なのはイギリス車で、MGやトライアンフ、オースチン・ヒーレーなどがある。では、それらと比べると和製スポーツカーであるフェアレディはどうだったのだろうか。

確かに、日産は戦後になってようやくスポーツカーの開発、製造を本格的に始めており、初代のフェアレデーは、戦前から開発、製造を続けてきたイギリス車には及ばなかった。しかし、二代目のフェアレディは、イギリス車と肩を並べるか、それ以上の性能を発揮したのである。

昭和38年(1963年)5月、鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリでスポーツカーB-Ⅱクラスでフェアレディ1500が優勝を果たす。B-Ⅱクラスは1301〜2500ccクラスのスポーツカー19台で競われたレースで、イギリス車であるトライアンフやMGを抜いての優勝だった。

日本グランプリ仕様のフェアレディ
日本グランプリで優勝したフェアレディ
昭和38年(1963年)の第1回日本グランプリのB-Ⅱクラスで優勝したフェアレディ1500である。1962年製のフェアレディだが、今でも保存されている。
MIKI Yoshihito from Sapporo City,Hokkaido., JAPAN, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons】

第1回日本グランプリでの優勝、これは、フェアレディが和製スポーツカーとして認知される上で大きな役割を果たしたといえるだろう。いや、それ以前に、日本グランプリの開催自体が日本の車文化にとってエポックメーキングな出来事でもあった。

日本のスポーツカーフェアレディ。

1960年代の日本は高度成長の時代と言われるが、その高度成長の波に乗り、モータースポーツも大いに花開いた時代だった。それは庶民が自動車という新たな製品に興味を持つきっかけともなった。そして、日本グランプリという檜舞台で成績を残した日本のスポーツカーがフェアレディだったのだ。

日本グランプリ優勝という結果を受け、二代目フェアレディは、1600ccそして2000ccとエンジンの排気量をアップさせ、トランスミッションやブレーキシステムを変更するなどモデルチェンジを行い、スポーツカーとしての性能をさらに向上させていった。実際にこの後、昭和44年(1969年)まで日本グランプリを始め国内外のレースに参戦し、好成績を収めている。

秋景色の中で停車するフェアレディ
秋景色とフェアレディ1600
大型のバンパーが付けられた精悍な一台。日本ではなく、海外で撮られたものではあるが、やはりフェアレディは、落ち葉が散り敷かれた秋景色に映える日本のスポーツカーである。
Andrew90, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons】

「マイ・フェア・レディ」に登場する主人公花売り娘のイライザは、レディとなり社交界にもデビューするわけだが、日産のフェアレディも、この後研鑽を重ね、日本を代表するスポーツカーであるフェアレディZへと成長していく。

やはり、この車にフェアレディと名付けた当時の日産の社長の決意には、拍手を送らねばならないだろう。

フェアレディ走行動画
フェアレディ1600と2000が並んで山道を走る動画である。これも海外のものだが、日本の道路ではなかなかこういう映像を撮ることは難しいだろう。走行の様子に加え、車のエンジンや機構・デザインの紹介、レストア時の苦労話なども含まれている。