三菱 コルト800

三菱コルト800
三菱 コルト800 昭和40年(1965年)

空力を考慮したこのスタイル!

日本にモータリゼーションが到来しようとしていた1960年代中盤の小型車、三菱のコルト800である。この車、前は普通の乗用車だが、後ろ半分が当時としてはとても個性的だ。屋根が車体後部までなだらかに続くファストバック車である。

しかも、リアには小さなテールフィンが付き、フェンダーでリアタイヤの上部が少し隠れている。こんな未来的なデザインが憎いところでもある。

三菱コルト800のスタイル
三菱 コルト800のスタイル
真横から見るとリアの形が普通の自動車と違うのがよくわかる。屋根がリアにまでなだらかに続くファストバックである。しかし、後のクーペなどに見られたような後部座席の狭さは無いようだ。ルーフからリアまでに流れるシルバーのモールや小さなテールフィンなどの装飾も泣かせる。

空力を考えた形状、ファストバック。

ところで、ファストバックとは何だろうか。バック、つまり自動車の後部の形のことを指しており、屋根から後部までがひと続きの傾斜になっているスタイルのことである。普通の車は、車の屋根とその後ろのトランクには段差があるが、ファストバックはひと続きなのである。

ファストバックは、もともと1930年代に流行した流線型の車によく見られた形で、車の後部の流れるようなラインが特徴である。実際にファストバックの車は、普通の形の車に比べ空気抵抗が少ないという空気力学上のメリットもある。

戦後の日本車の中で、ファストバックの形状を本格的に取り入れ、それを特長としたのは、この三菱コルト800が最初である。当時のコルトのカタログを見ると、「スピードという機能追求から生まれた流麗なファストバックスタイル・・・」と書かれている。やはり、販売においても空気抵抗の少ない流線型を意識しているのだ。

初期のファストバック車スタウトスカラベの写真
初期のファストバック
この不思議な車は1936年のスタウト スカラベである。流線型が流行した1930年代にはこんな車が登場した。ルーフが車の後部まで続くスタイルから、初期のファストバック車と言える。
Jim Evans, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons】
キャデラックシリーズ62のリアの写真
キャデラックシリーズ62
1949年型キャデラックシリーズ62の後部である。ルーフから後部のウィンドウ、トランクまで流れるラインでデザインされている。この頃、ファストバックという言葉が一般でも使われるようになってきていた。
Kevauto, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons】

三菱重工が開発した乗用車、コルト。

さて、この車コルト800は、三菱によって開発、製造された。だがその三菱とは、三菱重工のことである。三菱自動車は、昭和45年(1970年)に三菱重工から分社したメーカーであり、この車が開発された時代は、まだ三菱重工であった。

三菱と言えば戦前は大財閥であり、傘下の企業で自動車、船舶、飛行機などの製造を行ってきた。日本初の量産型自動車である三菱 A型を作ったことでも有名である。また、太平洋戦争中の名機零戦も三菱が開発、製造した飛行機である。

戦後に財閥は解体したが、三菱はグループとして生き残る。その三菱の戦後の機器製造部門を担ったのが、三菱重工なのである。そして昭和35年(1960年)、三菱重工は、戦後初の乗用車三菱500を開発する。その車は通産省が打ち出した国民車構想に基づき初めて自社で開発したものだった。

さらに昭和37年(1962年)には、コルト 600を発売する。ここで、コルトという名前が登場することとなるのだが、コルトとは、英語で若い雄馬のことを指す。それは、アメリカ的なイメージを打ち出した車でもあった。当時としてはスマートでモダンなデザインが話題を呼んだが、期待するほどは売れなかったようだ。

三菱A型と三菱の社員のスナップ写真
三菱A型
日本初の量産車三菱A型。三菱の従業員とともに撮られたスナップ写真である。撮影は1917年。なんと1910年代に日本の量産車製造は始まっているのだ。
Mitsubishi Motors Corporation, Public domain, via Wikimedia Commons】
三菱500とコルト600が並んだ写真
三菱500とコルト600
戦後の三菱重工で製造された車が並んでいる。手前が三菱500で、その奥がコルト600だ。愛知県岡崎市の三菱オートギャラリーで撮影されたもの。
The original uploader was Ooyubari9201 at Japanese Wikipedia., CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】

コルト800は、速さを強調した大衆車。

そこで昭和40年(1965年)に登場したのが、このコルト 800である。この車は、最初から大衆車、ファミリーカーとしての位置づけで開発された。そして最大の“売り”は、車のスタイル。誰が見てもすぐわかる“流麗なファストバックスタイル”であった。

さらに、エンジンは843ccの2サイクルエンジンを積んでいた。2サイクルエンジンと言うと軽自動車に搭載される非力なエンジンというイメージだが、実はコンパクトながら少ない排気量で馬力が出せるエンジンでもある。やはり、三菱重工は、その空力的なスタイルとともにコルト800の速さを強調したかったのだろう。

しかし、2サイクルエンジンは朝の寒い時期などにスタートさせると白い煙を吹き上げる。そこが嫌われたのか、発売翌年には1000cc4サイクルエンジンを積んだコルト1000Fにマイナーチェンジされる。さらにバックドアのついた3ドア車も投入するがあまり話題にはならなかったようだ。そして、発売から6年後の昭和46年(1971年)には販売が終了するのである。

コルト1000Fのカタログ動画
昭和42年(1967年)に発行されたカタログ。基本的にファミリーカーであることを訴求しているが、カタログの最初から「スピードという機能追求から生まれた流麗なファストバックスタイル」と語られている。やはりファストバックが最大のウリなのである。

モータリゼーションの波に乗り切れなかったコルト。

このコルト 800が発売された翌年である昭和41年(1966年)は、日本のモータリゼーション元年と言われている。その年の4月、鳴り物入りで日産サニーが登場。それを追うように11月にはトヨタからカローラが発売される。その後はサニーとカローラによる販売合戦、宣伝合戦が始まり、マイカーブームに火がつくのである。

しかし、三菱 コルトはそんなブームには乗り切れなかった。エンジンの出力をアップし、マイナーチェンジでテコ入れをしたにも関わらず販売は伸び悩むのであった。国際的にも注目され、流行していたファストバックスタイルの車だったのだが、なぜダメだったのだろうか。

もちろん、日産やトヨタの販売網の充実とか、広告の投入量の多さなどが圧倒的だったという点もあるだろう。しかし、もっと根本的な原因があったような気がするのである。

コルト1000FのCM動画
コルト1000FのテレビCMである。ラジオの音楽に合わせて軽快なドライブを楽しむ男性が登場。このCMもまたファストバックを強調している。出演しているジェリー伊藤がこれまた懐かしい。60年代の映画で外人役でよく出ていた。コルトは、外車のスタイルでカッコいいぞ!ということなのだろう。しかし、それでもコルトはモータリゼーションの波には乗り切れなかった。

普通の車とは違うスタイルが仇になった?

コルト 800や1000Fは、サニーやカローラと同様、大衆車である。はじめて車を持とうという人が、自分でも手に入るマイカーとして購入を考える車でもある。そんな人々はとにかく自分の家の乗用車を持ちたいのである。そのマイカーは、子供の頃から「自動車」として思い描いてきたものでなければならない。

確かにコルトはファストバックの個性的でスマートなスタイルである。しかし、これから初めて車を持とうという人にとっては、個性的なスタイルというより、普通の乗用車が良いのである。

コルト1000Fを後ろから見た写真
コルト1000Fのリアビュー
ファストバックスタイルがよくわかるコルト1000Fの実車の写真。当時の日本人には、このスタイルがまだピンとこなかったのである。なお、この車はトヨタ博物館の所蔵車のようだ。
Ypy31, CC0, via Wikimedia Commons】

普通の乗用車が欲しい庶民にとっては、なだらかにバックにまで屋根のラインが伸びているこの車は、「なんだ酒屋のライトバンみたいだ」となったのかもしれない。それに比べ、サニーやカローラは誰が見ても普通の乗用車だった。

要するに大衆向けの乗用車市場は、当時はまだ成熟していなかったのだ。三菱重工の個性や新しさを求める姿勢は良いのだが、自動車に対する当時の庶民の思いを見過ごしていたことに敗因があったのである。もちろん、今だったらこうした個性は受け入れられることだろうが。

コルト1100F動画
現存するコルト1100Fを紹介する動画。外観やエンジンなどを見せているが、今も新車のように美しく保たれているのが素晴らしい。