富士重工がボディを製造。
バスボディを製造したメーカーは、富士重工。現在のスバルである。スバルと言えば、昭和20年代の国民車構想に則って開発、製造された軽自動車スバル360が有名だ。
そのスバル360が生まれたのは昭和33年(1958年)。だが、自動車の開発を本格的に始める前の昭和20年代の富士重工は、バスのボディの製造でよく知られていたのである。
富士重工の前身は、中島飛行機だ。中島飛行機は、隼、疾風、鍾馗といった太平洋戦争中の名戦闘機を生んだ航空機メーカーである。
戦争が終わり、GHQ(連合国軍最高司令部)により飛行機の研究・開発が禁止されたため、富士重工はスクーターやバスなどの製造を行うようになる。特にバスのボディは、飛行機の板金や木工技術を活用して作られていたためその品質に定評があった。

戦闘機の製造を行っている様子がわかる。昭和19年(1944年)9月に中日新聞に掲載されたものである。
【中部日本新聞社, Public domain, via Wikimedia Commons】
昭和26年(1951年)に製造されたキャブオーバーバス。この車は、東武バスで昭和40年代初めまで、路線バスとして使われていた。写真は、東京の東武博物館で展示されているもの。
【Rsa, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons】
ここで取り上げているキャブオーバーバスもその全体のスタイルというかデザインの印象がなんとなく飛行機の車体を思わせるが、それも元飛行機メーカーの富士重工が生んだものだと考えると納得がゆくのである。
バスやトラックではアメリカに追いついていた。
さて富士重工だが、バスに関してはリアエンジンバスの開発も行っている。やはり航空機製造の技術を活かし、一体成型によるモノコックボディのリアエンジンバスを昭和24年(1949年)に日本で初めて製造する。
富士重工は、アメリカのバスを手本に製造したわけだが、昭和20年代から30年代には、富士重工をはじめ日本の自動車メーカーは、アメリカに追いつけ、追い越せと新しい技術を応用したバスやトラックを作り出していた。街を走るバス・トラックなどの商用車はすでにアメリカと変わらない車となっていたという話もある。
乗用車に関しては、1970年代に質の良い日本車がアメリカに輸出され日米自動車摩擦を起こしたわけだが、バスやトラックに関しては1950〜60年代にすでにアメリカ並みの車を作り出していたのである。

銀座4丁目交差点を京橋方面に向かって撮影した写真である。和光の時計台も見える。昭和35年ともなると銀座は車であふれており、バスが何台もいる。しかもこうしたバスは、すでに欧米のバスやトラックと肩を並べるような性能を持っていたようである。
【See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons】
