トヨタ パブリカ

トヨタパブリカ700
トヨタ パブリカ700 昭和36年(1961年)

これが、日本の大衆車。

とてもベーシックなスタイル。ヨーロッパ車を思わせる小型の大衆車。トヨタパブリカである。その初代は昭和36年(1961年)に登場し、昭和44年(1969年)まで8年間販売されていた。

それは、時代が生んだ大衆車だった。

車名であるパブリカは、パブリック・カーを縮めたもので、新発売の際に行われた車名募集キャンペーンの応募作から決定した。トヨタとしては戦後初めて力を入れて企画・開発した車である。

それまで乗用車とはお金持ちや企業の買うもの、あるいはタクシーやハイヤーとして使うものだった。それを一般大衆が使うものとして開発したのである。ゆえに、付いた名前もそのものズバリ、パブリック(一般大衆)の車である。

昭和35年の銀座4丁目の様子
昭和35年(1960年)頃の銀座
4丁目の交差点付近の様子である。走っている車両はバスに都電に商用車である。タクシーだろうかトヨタクラウンもいる。いずれにしても、一般大衆が自家用車を持つような時代ではまだなかった。
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この車の企画は、登場から遡ること7年の昭和29年(1954年)に始まっている。その年は東京の日比谷で「全日本自動車ショウ」が開催された年でもある。このイベントは、後の「東京モーターショー」の前身であり、当時は戦後の混乱も収まり余裕が出てきた頃で、人々が自動車に関心を向け始めていた時でもあった。

第1回全日本自動車ショウのモニュメント
第1回全日本自動車ショウ
昭和29年(1954年)に日比谷で開催された時のモニュメントである。英語表記では東京モーターショーとなっている。写っている車はトヨペットスーパーRHK型。当時、タクシーによく使われた。
Automobile Japonaisesより, Public domain, via Wikimedia Commons】

折から昭和30年(1955年)、通産省において「国民車構想」が議論されていることが報道された。それは、いくつかの条件をクリアする車を開発すれば、国が製造と販売をサポートするというものであった。この頃はまさに国を挙げて大衆車を作ろうとしていたのである。

国民車構想を軽ではなく小型車で。

国民車構想というとよく引き合いに出されるのが昭和33年(1958年)発売の通称テントウムシ、スバル360である。スバル360は、日本のモータリゼーションの嚆矢とされる量産型軽自動車であるが、パブリカは、このスバル360の開発より前に企画・開発が始まっている。

この当時、国民車構想に合わせた車の開発と言えば、スバル360に見られるように軽自動車の規格内で実現させるというのが多かった。しかし、トヨタは軽自動車ではなく、普通車の小型車で実現させることを狙っていた。

当時、小型車の開発でリードしていたのはやはりヨーロッパだ。トヨタは最初、フランスのシトロエン2CVのような空冷エンジンによるFF、つまり前輪駆動車を目指していた。

しかし、当時の日本の技術では前輪駆動は難しく、前に置いたエンジンで後輪を回すFR方式とした。また、当初エンジンは排気量500ccを予定していたが、高速道路時代を見越して馬力の出せる700ccへと変更。あくまでも普通の自動車を開発し、提供しようというのがトヨタの開発陣のコンセプトだったのだ。

パブリカ700のスタイル
パブリカ700のスタイル
2ドアでコンパクト。大きなフロントグリルがデザインポイントだ。
パブリカ700実車
パブリカ700実車
愛知県のトヨタ博物館に展示されている実車である。1961年製のもので発売当初のイメージが伝わってくる。
先従隗始, CC0, via Wikimedia Commons】

そしてトヨタパブリカは、スバル360に遅れること3年でようやく販売されることになる。当時のパブリカのセダンの価格は38.9万円。国民車構想に沿って作られ、ヒットしたスバル360も発売時の価格は42.5万円であった。それと比べれば、普通車ながらパブリカは安かったのである。

マーケティング戦略を駆使して。

トヨタは新発売に際し、車名募集キャンペーンをはじめ、他の業態のメーカーとのタイアップ広告、テレビコマーシャルなどを積極的に投入。さらに、新たな販売会社の設立、ローン販売のシステム構築なども行った。こうした販売促進策は、アメリカから輸入したマーケティング戦略に沿ったものでもあった。大衆に車を届けるという新たな試みには、先進国アメリカに倣った最新の戦略が必要だと考えたのである。

こうしてパブリカは、安い価格で一般の人々に向け大々的に売り出された。しかし、お金をかけたキャンペーンは人々の注目を集めても、実際の販売の方はあまり振るわなかった。新型大衆車パブリカには大きな落とし穴があったのである。

パブリカのCM
発売から2年後の昭和38年(1963年)、デラックス仕様が登場した頃のテレビCMである。たくさん積める、狭い道やでこぼこ道でも大丈夫、自動車専用道路ではスピードを出して走る、女性でも運転ができる等々。メリットをこれでもかと詰め込んだストーリー展開が時代を感じさせる。主演は俳優の大坂志郎である。

なぜ売れない?その理由は。

大きな落とし穴とは何か。それは、商品であるパブリカがあまりにも安っぽかったという点である。その走行性能は優れていたものの、装備が貧弱だったのだ。これは価格を軽自動車並みに下げるために必要だったわけだが、ラジオも暖房も無く、燃料計もサイドミラーも無いというあり様だった。車の外装にも装飾的なものは付いておらず、ただ走る鉄の箱という状態だったのである。

この当時、車の購入とは、一般大衆にとって一大決心の買い物だった。サラリーマンの平均月収が4万円ほどの時代。パブリカの値段は給料約10ヶ月分。そんな大枚を叩いて買う車が、人に自慢もできないような貧弱な車ということは我慢ならないのである。

逆にパブリカに対抗していた軽自動車は、この時期、より豪華な車を次々と投入していた。そのため、人々は軽自動車の方へ流れていったのである。そこでパブリカにも暖房やラジオはもちろんリクライニングシートやクロームメッキのバンパーが付いたデラックス版が追加された。また、オープンカーとなるコンバーチブルタイプまで登場する。こうした努力によって、パブリカの販売はようやく軌道に乗ることになるのである。

パブリカコンバーチブル
パブリカコンバーチブル
幌を取ればオープンカーに。こんな贅沢なパブリカまで登場した。バックスタイルもアメ車のようなテールフィンがカッコいいのである。
トヨグライドモデルのCM
トヨグライドとは今のオートマのことである。誰でも簡単に運転できる機能が付いたパブリカデラックスタイプの宣伝である。

ほんの少し登場するのが早かった。

マイカー元年とも呼ばれているのは、昭和41年(1966年)だ。それは、トヨタカローラとダットサンサニーが登場した年でもある。マイカー元年であるから、大衆向けの乗用車が人々に受け入れられるようになったのがその頃で、パブリカが登場したのはそれより5年前だ。

マイカー元年である昭和41年(1966年)のサラリーマンの平均月収は7万5千円。なんと、パブリカが登場した5年前の倍近い金額だ。さすがに高度成長真っ只中の日本である。しかも、昭和39年(1964年)の東京オリンピックを境に全国の道路の舗装率は進み、高速道路や自動車専用道路も多く開通した。

やはりパブリカは、少し早かったのだ。車が一般大衆向けのヒット商品となる時代が目の前に見えてはいたのだが・・・。

昭和39年の鬼押出し園駐車場の様子
昭和39年(1964年)の鬼押出し園駐車場
鬼押出し園とは、群馬県にあり、浅間山の溶岩を観察できる観光施設だ。昭和39年(1964年)にもなると休日にはマイカーで訪れる人が多かったようだ。さまざまな車を見ることができるが、前列の真ん中あたりにパブリカが駐車しているのがわかる。やはり、この頃にはパブリカは人気車種になってきていたのだろう。
Alden Jewell, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons】