戦後日本の道路を縦横無尽に。
昭和20年代から30年代にかけて、日本は敗戦から立ち直り、高度経済成長を迎えつつあった。そんな時代の物流の中心である長距離輸送は、やはり鉄道や大型の四輪トラックが担っていたが、近場の運送や商店の配送などは多くがオート三輪だった。
また、消防車やバキュームカーなど公共の仕事にもオート三輪は使われていた。なお、昭和32年(1957年)にはダイハツミゼットが発売され、軽のオート三輪も大ブームになっている。

手前がマツダT1500のトラックで日本通運仕様。後ろはマツダT2000のバキュームカーである。昭和30年代にはどこに行っても見かけた。

昭和32年(1957年)に登場したバーハンドルタイプのミゼットである。
やはりオート三輪の活躍は、当時の日本の道路事情によるところが大きい。当時は、車の走りやすい広い道路は都会にもあまりなかった。
一般的に道路の舗装率は低く、江戸時代の街道のままの道幅で曲がりくねっており、車のすれ違いも困難であった。ましてや住民の生活道路となると車一台が通れるかどうかという状況で、雨が降れば泥んこ道となった。
そんな道路事情の中では、やはりオート三輪が便利で機動性がよかったのである。三輪ゆえに回転半径が小さい、ということは小回りが効く。また、ぬかるんだ道での走破性が高いというメリットもあった。四輪駆動車よりもよく走ったという話もある。
もちろん、普通のトラックよりも価格が安いという点でもオート三輪であった。何と言っても庶民の味方だったのだ。
泥んこ道の駅前通りを走り抜ける。他にもバスやセドリック、クラウンなどの車も見られる。昭和32年頃の映像である。
こうして活躍したオート三輪も、昭和40年代に入ると三輪ゆえの不安定さや高速性能などの面から次第に衰退し、四輪の普通トラックが普及してゆくことになる。マツダはオート三輪市場から昭和49年(1974年)に撤退した。昭和37年(1962年)に登場したT2000も、この時製造、販売を終えている。
しかし、林業関係の仕事ではその後もオート三輪はよく使われていた。小回りがきき、悪路に強かったため、狭い林道にぴったりだったのだ。街ではすっかり見かけなくなった後でも、林道では、伐採した木材を積んだオート三輪をよく見かけたものである。
農協で使っていたマツダT2000の走る姿が見られる。半世紀以上前の車だがまだまだ元気である。
