源義経 二十六歳
元暦二年(1185年)、源氏と平家の両軍は、関門海峡の東端壇の浦で最期の決戦に臨んだ。二十六歳の源九郎義経率いる源氏は、壇の浦の東、干珠・満珠の小島より、一方平家は、門司側の田の浦より船出する。
海戦は平家にとって得意とするところ。しかも、潮の流れも味方して、平家は、源氏の軍を圧倒する。義経はたちまち苦境に立たされた。しかし、一の谷、屋島と奇襲を続けた義経である、ここでもまた奇襲を用いた。
「水夫(かこ)を狙って射かけよ。かじとりがいなければ、舟は役に立たぬ」
その作戦が功を奏したのか、平家の舟は混乱に陥り、退きはじめた。
そして、昼を過ぎ午後三時頃、急に潮の流れが変わったのである。
「これを、待っていたぞ。さあ、みなの者、平家の舟を追いおとすのじゃ」
この時、義経は、舟から舟へと飛び移り奮戦したと言う。俗に言う義経の八艘飛びである。それが史実か、それとも義経のイメージがつくりあげた伝説かは、知るよしもない。
源義経(1159~1189)
源義朝の九男。平氏追討を命じられて、一の谷、壇の浦等で功をなす。後、兄頼朝の怒りをかって、奥州へ。平泉の藤原氏を頼る。