与謝野晶子 二十六歳
『あゝおとうとよ君を泣く、君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば、親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや』
「旅順が落ちようとも、そうでなくても、菓子商の旧家のあととりであるあなたに、なんの関係があるというのでしょう。どうか、無事に生きて帰ってきてください。」
日露戦争のさなか、旅順口攻囲軍のなかにいた弟を思い、晶子は歌を綴る。世間の枠にはまることなく、ほとばしる情熱をそのまま歌に託していく晶子ではあった。
だが、戦争という異常な世界を走っていた当時の社会の中で、人々はこれを反戦歌であるときめつけ非難を浴びせる。
しかし、晶子は、そんな世の雑音をはねのけるように、この歌を発表するのであった。明治三十七年、晶子が二十六歳の時である。
与謝野晶子(1878~1942)
明治・大正・昭和に渡って活躍した女流歌人。与謝野鉄幹と結婚して、さらにその作風に磨きがかかる。自由奔放に生きた強烈な個性の持ち主である。