津田梅子 十八歳
明治十五年(1882年)津田梅子十八歳。この年、アメリカ留学を終え、日本に帰国する。
「あっ、富士山よ。いよいよわたしたち日本に帰ってきたのね」
梅子はもう大はしゃぎであった。十年ぶりに見る富士は、あいかわらず美しく、気高かく、まるで彼女の帰国を祝い、喜んでくれているように見えたのだ。
梅子が四人の仲間とともに日本を出発したのは約十年前、明治四年の冬のことであった。彼女たちは、黒田清隆の提案による日本で最初の女子留学生として渡米したのであった。そしてこの日、梅子と山川捨松の二人が、最後の留学生として帰国したのだ。
富士山は変わらなかったが、街の景色はだいぶ変わっていた。洋服を着ている人が増えたようだし、電柱もずいぶんある。その上、馬車も沢山走っていた。
「日本も、やがてはアメリカやヨーロッパと肩を並べるようになるわ」
そう確信した梅子は、帰国早々さっそく英語教育に携わる。しかし、彼女の前に、ひとつの壁が立ちはだかった。英語が堪能なのはいいが、日本語を全く忘れてしまっていたのである。
津田梅子(1864~1929)
岩倉具視遺外使節一行とともに八歳で渡米。帰国後、女子英学塾(津田塾大)を設立し、女子高等専門教育の発展に精力を注ぐ。