敗軍の将、堂々と。イギリスとの講和談判。

高杉晋作 二十四歳

文久三年(1863年)、長州は無謀にも欧米列強を相手に戦をしかけた。馬関攘夷戦である。結果は長州の惨憺たる敗北であった。

その講和談判に長州代表として臨んだのが、二十四歳の高杉晋作である。

高杉は通訳の伊藤俊輔(博文)を従え、連合軍の旗艦ユーリアラス号に堂々と乗り込んできた。イギリス側の通訳アーネスト・サトウは、その時の高杉の様子を「魔王のように傲然と構えていた」と述べている。

さて、講和談判がはじまると、イギリス側は、彦島の租借の問題を持ち出した。高杉には、租借の意味がよく判らなかったが、どうも領土のことらしいと感じた。すると高杉は、突然

「天地初めてひらけし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に・・・」
と古事記の国生みからはじめて日本の歴史を説きはじめた。

領土の問題なら、わが国土の始めから話そう、と考えたのである。そして、この怪弁で租借の件をうやむやにしてしまった。

列強の居並ぶ中での高杉のこの度胸と機転は、まさに脱帽と言うしかない。

高杉晋作(1839~1867)
萩出身。松下村塾に学んで尊皇攘夷運動に投じ、奇兵隊を組織する。長州藩の実権を握り、藩論を討幕へと転換。第2次長州征伐では、幕府軍に勝利。