吉田松陰 二十四歳
その日、下田の海の沖には、いままで松陰が見たこともない船が停泊していた。全体が真っ黒に塗られ、しかも、もうもうたる煙を吐いている。
「あれが、アメリカの軍艦だ」
そばにいた佐久間象山がそう言った。それは、幕府に開国を迫りにきた、ペリー提督率いるアメリカ艦隊の姿であった。
そこで彼は、もう一つの驚くべきものを見た。祖国の大事にあたっての幕府役人の無策さである。
「天下国家が危急存亡の時に、ただ、おのれが事のみを考えている!あれでは国は滅びる」
この時、松陰は、象山の示唆もあって渡米を決心した。当時、国外へ出ることは、国禁である。しかし、世界を見、そしてよく知ることが、祖国日本を救う道であることを信じて疑わなかった彼は、敢えて、その重い国禁を破る決意をしたのだ。
翌安政元年(1854年)三月、ペリーの艦隊は、再度下田に渡来する。松陰は、同僚の金子重輔とともに、アメリカ軍艦めざして小舟を漕ぎ出したのであった。時に松蔭二十四歳。
吉田松陰(1830~1859)
長州に生まれる。西洋事情視察のため密航を計画するが、失敗して投獄される。出獄の後、松下村塾を開き、後進の指導にあたる。