父を駿河に追放し、国主となる。

武田信玄 二十歳

武田信虎にとって我が子晴信の行動は、何かと鼻につくことが多かった。それは、晴信の気性に自分とよく似た激しいところがあったからかもしれない。信虎は晴信より、温厚な性格の次男信繁を愛した。

天文十年(1541年)信虎は、娘婿の今川義元を訪ねて、駿河へ出掛けた。
「この時しかない。我は父を捨て、国主をとる」

晴信は、かねてより心に秘めていた計画を実行に移した。駿河へ通じる道を国境で閉鎖し、父の供をした家臣の家族を人質としてしまったのである。晴信のこの計画は完全に成功した。

父信虎は、勇猛な武将であったが、家臣の心はもはや離れていた。父と共に駿河へ赴いた家臣も次々と信虎を捨て、甲斐に戻ってきたのである。

この時、晴信、後の信玄は二十歳。父信虎は、これ以後八十二歳で没するまで、再び甲斐の土を踏むことはなかった。

武田信玄(1521~1573)
甲斐の武田信虎の嫡男として生まれる。父を駿河に追放して自立、後に五ヵ国を支配する戦国大名となる。上杉謙信との川中島の戦いはあまりにも有名。