腰に荒縄、朱鞘の太刀。尾張の大うつけ。

織田信長 十八歳

尾張の旗頭織田信秀には、ひとりの手を焼く息子がいた。

その風貌はと言えば、袖なしの浴衣に虎の皮と豹の皮を縫い合わせた半袴。うしろに束ねた髪は真赤なひもでくくり、腰には荒縄を巻きつけ、火打ち袋や瓢箪をぶら下げている。そして手には、目にも鮮やかな朱鞘の太刀。「あれが、尾張のうつけよ、織田殿の馬鹿息子よ」と人々が噂するこの変わり者こそ、後に天下にその名を轟かす織田信長である。

天文二十一年(1552年)この大うつけの将来を案じながら、父信秀はこの世を去った。

尾張守護代の一奉行に過ぎなかった身分から一代で戦国大名にのし上がってきた父信秀。しかし、その父も病には勝てなかった。

「今死ぬなぞ、父上こそ大うつけじゃ」信長は無性に腹が立った。

父の葬儀の日。信長は、いつものいでたちで現れ、仏前にずかずかと進み出ると、いきなり抹香をわしづかみにして父の位牌に投げつけたのである。

信長、十八歳。この尾張の大うつけが、やがて天下布武へとその一歩を踏み出す。

織田信長(1534~1582)
父信秀の死後、十八歳で家督を継ぐ。桶狭間の戦いで今川を破り、さらに尾張の統一、美濃攻略を成して入京。天下統一への足がかりをつける。