豪胆さ、機転のよさで材木調達。

紀伊國屋文左衛門 二十九歳

元禄時代、江戸は空前の建築ラッシュであった。湯島聖堂をはじめ、護国寺や護持院の建築、日光東照宮の修復工事など、大規模な工事が次から次へと続いていた。

そして、その工事の最大のものとして、東叡山寛永寺の建築が計画される。東叡山寛永寺、京都の比叡山に対抗できる寺を作るという計画である。それは、今の上野公園のほぼ全域を境内とする、途方もないスケールであった。

当時、幕府の工事の材木調達は、材木商奈良屋茂左衛門が一手に引き受けていた。今度も当然、奈良屋は自分がそれを請け負うものと考えていた。しかし、ここで彗星のごとく現れた新進の材木商がいた。紀伊國屋文左衛門である。

「まだ、他人が目をつけたことのない良材を手に入れれば、この工事わたしがもらえる」

そう確信した文左衛門は、大井川上流の千頭山に自ら出掛け、伐り出し権を買う。彼は、この機転の早さと持前の冒険心で、奈良屋に勝ち、材木調達を請け負うのであった。

この時以来、文左衛門は一躍豪商としての地位を築き上げる。当時まだ二十九歳であったと言う。

紀伊國屋文左衛門( ? ~1734)
紀伊国出身と言われる。元禄時代の豪商。材木商として巨万の富を築く。「紀文大尽」と称され、豪遊を続けて有名となった。