『あれは紀伊の国みかん船』。

紀伊國屋文左衛門 二十歳

紀州といえば、みかん。そのみかんで一躍財を成した男がいる。紀伊國屋文左衛門である。

当時、紀州では徳川家がみかん産業を保護奨励したことにより、みかんを江戸へ盛んに出荷していた。しかし、紀州みかんは、江戸ではまだまだたいへん高価なものであった。

寛文十一年(1691年)この年、悪天候が続き船路が途絶え、紀州みかんの値段が江戸で暴騰する。文左衛門は、機を見るに敏な男であった。
「いまだ!いま江戸にみかん船を出せばひと儲けできる。危険は重々承知。危ない橋を渡ってこそ、銭も手に入る」

無謀と言えば、これほど無謀なことはない。嵐にあって船が沈めば、儲かるどころか、破産である。しかも、自分の命さえ危ないのだ。

しかし、若い文左衛門は、みかんを一杯にした船で勇敢にも海に乗り出す。そして、無事江戸に入り、大儲けするのである。

これこそ後に、『沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀伊の国みかん船』と歌われた、文左衛門若き日のエピソードである。この時、二十歳の若者であったと言う。

紀伊國屋文左衛門(?~1734)
紀伊国出身と言われる。元禄時代の豪商。材木商として巨万の富を築く。「紀文大尽」と称され、豪遊を続けて有名となった。