将軍の孫の乳母役として取り立てられる。

春日局 二十五歳

慶長九年(1604年)、京の町に風変わりな高札が立った。
「将軍家康公の嫡孫竹千代の乳母を求む」

この七月に生まれた家康の孫竹千代の乳母の募集広告である。当時の京の女たちは、東国に下るのを恐れていた。それがための苦肉の策と言えるだろう。

お福は、これに目をつけた。
「いっそのこと、東国に下って、心機一転巻き直しをはかろうかしら」

浪人稲葉正成の妻お福は、今、職を探していた。夫は、世を離れて隠遁生活を送ろうと言い出すし、三人の子の将来には見込みはないしで、今のままの生活がいやになっていたのである。

「わたしは、浪人者の妻なんかで終わりたくない!」
お福は、いつもそう考えていた。ついに、お福は決断し、その募集に応じる。

そして、試験の結果、お福は将軍の孫竹千代の乳母役として取り立てられることとなる。お福、この時二十五歳。後の春日局である。

春日局(1579~1643)
明智光秀の家臣斎藤内蔵助利三の娘で、名を福という。17歳で稲葉正成の後妻になる。三代将軍家光の乳母に召しだされたあとは、江戸城で忠勤にはげむ。