死中に活・・・、小田原参陣。

伊達政宗 二十四歳

秀吉に会いに行くか、行くまいか。

伊達家は、揺れに揺れていた。伊達政宗のもとに、秀吉から北条攻めに参陣するようにと命令が来たのである。しかも政宗は、秀吉に服属していた蘆名氏を滅ぼし、秀吉に詰問を受けていた時でもあった。

「小田原へ行けば、そのまま殺されるかもしれぬ。しかし、今抗しても、やがては決着をつけねばなるまい。我は死中に活を求める」
政宗は、小田原へ向かった。

その時のいでたちはと言えば、甲冑の上に白麻の陣羽織、水引で髪を結ぶという死装束。政宗独自の演出であった。『我は覚悟を決めてきた』という意思表示である。しかし、秀吉の怒りは解けず、対面をなかなか許そうとはしなかった。

そこで政宗、茶人利休が小田原にいることを知ると、利休に茶の稽古を所望する。

これを聞いた秀吉、「生きるか、死ぬかにありながら、茶とはおもしろい」と、謁見を許したのである。この時、秀吉五十五歳、政宗は二十四歳であった。

伊達政宗(1567~1636)
出羽米沢城主伊達輝宗の子として生まれる。奥州の雄として独眼竜の異名を持つ。家康の天下統一の後は、江戸幕府の下で仙台藩六十二万石の礎を築く。