柳生宗矩 七十歳
寛永十八年(1641年)時の将軍徳川家光は、柳生一門の功労を賞して、大和高取五万石の地を柳生に与えようとした。
しかし、七十歳の柳生宗矩
「誠にかたじけなきご配慮厚く御礼申し上げまする。なれどその儀、宗矩には過ぎたることにて」
と、あっさりその申し出を断ってしまうのである。
一介の兵法者として、二十四歳で指南役として徳川家に召しかかえられ、いまや一万五千石となり、大名に列している宗矩である。三河以来の功臣が居並ぶ中、新参者の宗矩が大名に列するには、それ相応の嫉妬や中傷を覚悟しなければならなかった。まして、幕府の大名統制の影の功労者たる身である。
「この度の五万石をここで受ければ、必ず波風が立つ」
宗矩は、そう確信していた。
相手を知り、おのれを知るのが兵法の極意である。宗矩、自らをよくわきまえ、進退の時期を明確につかんでいたと言えよう。まさに、兵法を自らの日常で実践してみせた兵法者であった。
柳生宗矩(1571~1646)
柳生新陰流の祖柳生宗巌の子として生まれる。徳川家の剣術指南役として仕え、秀忠・家光に指南。後に但馬守に叙され、幕府の総目付となる。