北条早雲 八十四歳
「いよいよ終わるか。これで相模もわしのものとなるか」
時に永正三年(1516年)、北条早雲は、三浦氏を新井城に滅亡させ、相模平定を実現する。早雲は、齢八十四という高齢ではあったが、自ら采配を振るっての戦であった。
早雲の相模への進出は、大森藤頼の小田原城を奇襲により一夜にして落としたことから始まった。その時早雲は、すでに還暦をむかえていた。それから二十数年、今ようやくにして、最後の牙城三浦氏の攻略を成すことができたのだ。
鎌倉幕府の重臣の子孫である三浦氏は、なかなかに手ごわい相手であった。それだけに、早雲は、戦いには慎重を期していた。三浦の軍が戦をしかけても、簡単には城から討って出なかった。
「殿、もうがまんがなりませぬ。拙者にお任せくだされば、三浦めをけちらしてまいります」
「いや、まだじゃ。やりたい奴らには、やらせておけ」
早雲は、北条軍を弱いと見せかけて敵をおごらせ、敵の油断を衝いて突然に襲いかかるという戦法で戦を勝利へと導いてきたのである。人生経験を積んだ早雲ならではの策略である。
北条早雲(1432~1519)
後北条氏の祖。堀越公方を滅ぼし、伊豆を制圧。小田原城を奇襲で落として相模に進出。後に、三浦氏を滅ぼして、相模平定を成す。