大坂夏の陣、冬の陣。

徳川家康 七十一歳

関ヶ原の戦いで天下の形勢は、家康の側にすでに傾いていた。関ヶ原の後、家康は、徳川の天下の基礎を築くため、さまざまな手をうってきた。

しかし彼にとっては、大坂にいる秀吉の遺子秀頼とその母淀殿の存在が、どうしても気がかりなのであった。

亡き秀吉に、
「秀頼のこと、くれぐれも頼みますぞ」
と、託されていた家康ではあったが、穏便に事を運ぶにも、もう限界であった。大坂方は、秀吉の威光をあいかわらず笠に着て、何かと家康に楯突いてきていたのである。

「大坂だけは、何とかせねばならぬ。わしも齢七十を過ぎた、もはやこれ以上は待てぬ」

その時期、秀吉が死んですでに十五年以上が過ぎていた。浅野長政、加藤清正、池田輝政など豊臣恩顧の大名もそのほとんどが死去していた。

「今こそ機。わしとてもいつ迎えが来るかわからぬ身じゃ」

ついに家康は、決着をつけるべく行動を開始する。大坂の陣である。時に、家康七十一歳であった。

徳川家康(1543~1616)
三河国岡崎の生まれ。織田信長、豊臣秀吉を継いで天下統一を成す。江戸幕府の初代将軍となり、幕藩体制三百年の基礎を築く。