細川幽斎 六十六歳
時は慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いの真っ最中。細川幽斎は、息子忠興の留守を守り、丹後の田辺城で籠城していた。
敵は西軍の将小野木縫殿助をはじめとする一万五千、対する味方はわずか五百であった。
「この城落ちるは、まぬがれられぬ。あっぱれな戦いぶりを見せようぞ」
幽斎は、この城で家臣とともに討ち死にする覚悟を決めていた。
この時朝廷から、開城するようにとの勧めが幽斎のもとに届けられたのである。幽斎は、歌道においても名を馳せた武将であった。朝廷は、その知識が絶えるのを惜しんだのである。
「もったいないお言葉なれど、老い先短いこの体、幽斎もう惜しくはございませぬ。しかれども、我が書が灰塵に帰するは惜しゅうござる」
と、幽斎は歌道伝授の書一切を天皇の弟八条宮智仁親王に贈ることを申し出るのであった。
しかし、朝廷ではなおもあきらめず、幽斎助命の工作を続ける。その甲斐あって、ついに田辺城の囲みはとかれた。自らの学問で自らの窮地を救った幽斎。時に、六十六歳であった。
細川幽斎(1534~1610)
織田信長に仕え、丹後を与えられる。信長亡きあとは豊臣秀吉に仕え、九州征討に出兵する。関ヶ原の役では東軍につく。