佐々成政 六十八歳
「な、なんと講和じゃと。あの秀吉を野放しにするのか。三河(家康)殿も不甲斐ない」
天正十二年(1584年)、秀吉と家康の決戦と思われた小牧・長久手の戦いが講和となったことを知った成政はいきりたった。成政は大の秀吉嫌いだったのである。
「ここは、三河殿のところへ馳せ参じねばならぬ。今から浜松へ赴くぞ」
成政はその時越中にいた。越前から近江へ抜けて美濃、尾張と行くコースは、すべて敵地である。遠江浜松へと出るには、諏訪へぬけて天竜川沿いに南下する道しかない。つまり、中部山岳地帯を縦断するのである。
しかも、時は十一月。雪に埋まるアルプスの山々を踏破せねばならなかった。家臣はみなこぞって反対する。成政は六十九歳の高齢でもあったのである。
「今、馳せ参じねば、後顧に憂いを残すことになろう」
成政の決心は固かった。彼は、ついに厳冬の雪中行軍を強行した。
黒部の秘境を越え、ザラ峠の難路を過ぎて信州へ出、そして地元民の案内で、ひと月かけてついに浜松へとたどり着く。佐々成政、年はとっても、不屈の意思を持つ猛将であった。
佐々成政(1516~1588)
尾張生まれ。織田信長に仕え、本願寺一揆の鎮圧で功を成し、越中を与えられる。後、秀吉と争うが許され、肥後国の領主に任ぜられる。