天下人に、ひとり抗する。

千利休 六十九歳

利休の住む屋敷には、毎年夏になると朝顔が咲きみだれ、それは見事なものであった。それを聞いた秀吉、
「明日の朝、わしが朝顔を見に行くので茶会を開け」
と命じた。

翌日、秀吉が利休屋敷に行くと、朝顔が一つもない。これはどうしたのだと思って茶室に入ると、なんと一輪の朝顔が活けてあるのであった。

「秀吉公、わびの心というものを、らんまんに咲き乱れる桜でなく、朝露の中、一面に咲く朝顔ではなく、ただ一輪の花のなかに見い出しなされ。黄金の茶室でお茶をもてなしたとて何になりましょう。利休が建てた、このたった二畳敷の茶室の意味がおわかりになりませぬか」

と、そう利休は言いたかったのだろうか。とにかくこの頃の秀吉は、黄金ずくめの茶室で茶をたてるといった世俗的な風におちいっていた。利休には、それに我慢がならなかったのだ。

しかし、権力者には、このレジスタンスもききめがなかった。天正十九年(1591年)、利休が行った大徳寺の山門工事に不手際があったとし、秀吉は利休を追放する。この時利休六十九歳、秀吉五十四歳であった。

千利休(1522~1591)
堺の魚問屋に生まれる。茶の湯を学び、織田信長の茶頭となる。さらに秀吉に寵遇されその茶頭となり、秀吉の側近として政治に参画。