千利休 六十歳
「築州秀吉がまだご滞在なら、ふとまかり越すやもしれぬゆえ、おとりなしくだされ」
こんな内容の手紙が宝積寺境内妙喜庵の和尚のもとにとどいたのは、信長の弔い合戦のさなか、秀吉が天王山の宝積寺に仮の城を築いた時であった。
差し出し人の名は、千利休。時に天正十年(1582年)秋のことであった。利休は、亡き信長の茶頭(さどう)であった。信長亡きあと、その家臣の中でも最も機敏な動きを見せているこの秀吉という男に利休は興味を持ったのだった。
利休と秀吉は、妙喜庵の茶室待庵で対面する。そこは、わずか二畳敷という狭い空間であった。
「色が浅黒くて小柄なこの男、この男なら天下が盗れる!」
利休は、一瞬にして秀吉の器量を見抜いた。話をすればするほど、利休のこの確信は深まるのだった。一方秀吉も、利休の人物に惚れてしまった。
「宗易公(利休)にこの秀吉のあと押しをしてもらえば、心強いものじゃ」
まさに、英雄は英雄を知るである。運命のこの出会い、利休六十歳、秀吉四十五歳のことであった。
千利休(1522~1591)
堺の魚問屋に生まれる。茶の湯を学び、織田信長の茶頭となる。さらに秀吉に寵遇されその茶頭となり、秀吉の側近として政治に参画。