母の心、お福の薬断ち。

春日局 六十四歳

お福、春日局は、今、病を得ていた。薬を一切飲まないのが、彼女の病状をさらに悪化させていた。これには、理由があった。話は、十四年前にさかのぼる。

お福は、将軍家光の乳母役。家光が元服し、将軍職を継いでからは、大奥の取締り役となっていた。家光は二十六歳の時疱瘡にかかる。家光を心配したお福は、彼の全快を祈り、自分は一切薬を飲まないと誓ったのである。その母心が通じたのであろうか、家光はまもなく全快する。

この時の薬断ちが、続いていたのである。家光は、この母のようなお福を心配し、たびたび見舞いに訪れ投薬をすすめた。ある時には、将軍が手ずから薬を飲まそうとした。

「上さま、もったいのうござります。そのような上さまのお気持ちにこのお福、胸がいっぱいでございます。ありがたく、頂戴いたします」

お福は、家光の薬を押しいただき口に含んだ。しかし、その薬を、家光の見えないようにして、懐にこぼしたと言う。家光の命を守った薬断ちを守り通した母の愛であった。

時に春日局、六十四歳。

春日局(1579~1643)
明智光秀の家臣斎藤内蔵助利三の娘で、名を福という。十七歳で稲葉正成の後妻になる。3代将軍家光の乳母に召しだされたあとは、江戸城で忠勤にはげむ。