陶晴賢を、厳島に破る。

毛利元就 五十八歳

元就が中国の覇者となるには、陶晴賢はなんとしてでも倒しておかねばならなかった。しかし、正面切っての戦いは、やはり元就の分が悪い。

「我が兵力で晴賢の大軍を破るには、狭い場所を戦場とせねばならぬ・・・厳島じゃ!」
元就は、家臣の反対を押し切って厳島に城を築く。しかし、これは囮の城であった。

そして、ここに晴賢の軍を誘い込むために、元就得意の謀略戦が始まる。
厳島の城の主に晴賢軍を寝返った武将を置き晴賢の悪口を言わせたり、晴賢軍の侍大将が元就と通じているとの噂をまき侍大将を殺させたり、「厳島に城を築いたが、失敗であった」と元就が考えているとの情報を敵方へ流したりした。さらに、味方の将をわざと晴賢軍に内通させることまでしたのである。

弘治元年(1555年)九月、ついに晴賢は謀略に乗る。二万の大軍で厳島を攻めたのである。

「我が謀略、ここに成れり!」
毛利軍は、風雨をついてひそかに島に上陸。わずか四千の兵で背後から襲いかかり、二万の晴賢の軍を討ち負かすのである。元就、五十八歳の秋であった。

毛利元就(1497~1571)
安芸国に、郡山城主毛利弘元の子として生まれる。厳島に陶晴賢を滅ぼし、大内義長を滅ぼして周防、長門を平定。後に西中国地方十か国を領する。