藤原道長 五十二歳
寛仁二年(1018年)藤原道長の三女威子が、後一条天皇の中宮となった。道長は既に、一条天皇の中宮に長女彰子を、続く三条天皇の后に次女妍子を送りこんでいた。これで三代続いて天皇の外戚となったのである。しかも、後一条天皇は、道長の孫でもあった。
「わしは、何と運のよい男じゃ」
道長がそう感じるのも無理はない。道長は、摂政・関白藤原兼家の四男である。普通ならば、政権を握ることなど、夢のまた夢であった。
ところが、上の三人の兄は、流行り病で次々に死んでいったのである。しかも結婚すれば、妻は娘を多く生んで、その娘は宮中へ入る。さらに、娘たちは宮中で皇子を生み、その皇子が位に即く。まさに、順風満帆であった。
この年の十月、道長は、娘威子が中宮となった祝いの宴を催す。この宴の席で、道長は上機嫌となり、こんな歌を即興で詠んだ。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
有名な『望月の歌』である。権力の絶頂にいた藤原道長、この時五十二歳であった。
藤原道長(966~1027)
藤原兼家の子として生まれる。自らの娘を天皇の后とし、強固な外戚関係を持って政権を握る。摂政、太政大臣となり、藤原氏の摂関政治の全盛時代を築く。