洛北鷹峰に、町づくり。

本阿弥光悦 五十七歳

「あそこがよい、あそこに我が屋敷を建てよう。我が屋敷の向かいは、茶屋四郎次郎殿の屋敷じゃ。して、向こうは、蒔絵師の衆、紙師の衆・・・」

ここは、洛北の地、鷹峯。光悦は今、その地が見渡せる山に登って、町づくりの策を練っていた。元和元年(1615年)大坂夏の陣により、天下がようやく徳川のものとなったその年。光悦は、徳川家康からこの鷹峰の原野を与えられ、一族郎党を従えて住むように命じられたのであった。

鷹峰は、京から丹波へと抜ける山あいの寒村。当時は、辻斬りや追剥(おいはぎ)の出る所でもあった。この物騒な所が、これから光悦とその一門の住む地となるのである。京に生まれ、暮らしてきた光悦にとっては、まさに都落ちであった。

しかし、光悦には、与えられた環境にすぐに順応できる柔軟性があった。
「所替えをせよというのか・・・・面白い。我等だけの町を作ろうではないか」

後の世にもない豪胆で、進取に富む作品を作りあげてきた光悦ならではのこの柔軟性が、後に、ここ鷹峰を芸術家の町にしてしまうのである。この時、光悦五十七歳であった。

本阿弥光悦(1558~1637)
京都で、刀剣鑑定家の家に生まれる。蒔絵、陶芸、書など江戸初期の総合的芸術家。洛北鷹峰の地に芸術家村を築く。