秀吉の死の床で。

徳川家康 五十五歳

慶長三年(1598年)三月、秀吉は側近のみを集め、豪華絢爛な花見を行った。世に言う『醍醐の花見』である。そして、これが天下人秀吉の最後の輝きであった。花見から五か月後の八月、秀吉は、この世を去るのである。

秀吉はいよいよという時、家康ら五大老を呼ぶ。彼は、五人の中でも家康を特に頼りにしていた。そして、家康を枕元に呼ぶや

「内府(家康)殿、くれぐれも、くれぐれも秀頼が事、頼みまするぞ」
と、言うのであった。

秀吉はこの時大きな問題を抱えていた。朝鮮の役の決着がいまだついていなかったのである。しかし、今の彼にとっては、幼い秀頼の事だけが気がかりだった。

秀吉の頼みに、無言で何度も頷く家康。この時、家康の胸中に去来するものは、何だったのであろうか。今となっては知るよしもない。同じ時、家康の背後で、ひとりの武将が何事かを決意していた。石田三成である。

時に、家康五十五歳。関が原の戦いは、この二年後である。

徳川家康(1543~1616)
三河国岡崎の生まれ。織田信長、豊臣秀吉を継いで天下統一を成す。江戸幕府の初代将軍となり、幕藩体制三百年の基礎を築く。