『曾根崎心中』で、独自の芸を切り開く。

竹本義太夫 五十二歳

「わしの声でなければ語れん、わしだけの浄瑠璃ができないものか」

義太夫は、芸に貪欲であった。勉強熱心でもあった。彼は、何人かの師匠について浄瑠璃を学ぶ。しかし、そのどれもが彼の求めるものではなかった。それは既に、師匠によって完成されたものだったからだ。義太夫の願いは、浄瑠璃作家近松門左衛門に出会って、現実のものとなる。

元禄十六年(1703年)五月、竹本座で近松作の世話浄瑠璃『曾根崎心中』が上演される。近松が、心血を注いで書き上げた男女の哀しい愛の世界、その一句一句を、義太夫はそれまで自分が蓄えた技量を注ぎ込み、まさに精魂果たすまでに語り尽くす。

「この世もなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふればあだしが原の道の霜・・・・七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の、鐘のひびきの聞きおさめ・・・」

その芸は、大好評を博す。師匠を乗り越えた芸であると人々は喝采を送った。時に義太夫五十二歳。芸に対する飽くことのない追求が、ついに彼自身の芸を生んだのであった。

竹本義太夫(1651~1714)
摂津国東成郡の出身。清水利兵衛の一座に加わる。宇治加賀掾の一座に入り好評を得る。後、流派を起こし竹本座を創立。義太夫節を創始する。