大阪の陣で家康に対抗。

淀殿 四十八歳

「家康は、秀頼を陥れようとしている。秀頼のことを頼むと上様にいわれておきながら」

淀殿は、そう思った。前の関が原の役でも、秀吉の一子秀頼の所領は家康に没収された。そして今度の方広寺の鐘銘一件である。家康は、豊臣家が方広寺に寄進した大仏の鐘銘が、家康を除き豊臣が天下をとることを意味していると抗議してきたのだ。いいがかりも甚だしかった。

慶長十九年(1614年)、ついに淀殿は大坂城籠城を決意。軍勢を集め始める。

「この巨大な大阪城が落ちるはずがない。この城を砦に戦えば、必ずや勝てる」

そう信じて疑わなかった淀殿ではあったが、家康の前には、風に身をまかせる大輪の花であるしかなかった。

この戦は結局和平に持ち込まれるが、家康は、大坂城の濠を埋め始め、豊臣方はそれをどうすることもできずにいた。

翌年、淀殿は再び徳川と戦う。大坂夏の陣である。濠のない大坂城は、もう城としての機能を果たすことはできなかったが、それでも淀殿は立った。亡き秀吉の意思を継ぎ、秀頼を再び天下人とする日を夢見ながら・・・。淀殿四十八歳の夏であった。

淀殿(1567~1615)
浅井長政の長女で、織田信長の姪にあたる。豊臣秀吉に寵愛され側室となり、嫡子秀頼を生む。秀吉没後、権勢をにぎる。