幕府の試験に首席合格し、役人となる。

太田蜀山人 四十七歳

蜀山人は、やはり武士であった。武士としてお役につき、奉公をしなければならないと痛切に感じていた。しかも、自分の息子のためにも、太田の家を潰すわけにはいかなかった。

世は寛政の改革、老中首座の松平定信は、文武の奨励を強引に押し進めた。その時、ある狂歌が蜀山人の作ではないかと疑われたのである。

『世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず』
蜀山人は、これをきっぱりと否定した。

「幕臣であるこの身が、かような歌をつくるはずはない。しかし、わしはこれで汚名を流した」

蜀山人は、この事件をきっかけに狂歌の道から身を引き、幕臣としての道を選んだ。その再出発として彼は、幕府の人材登用試験に挑戦したのである。『論語』、『詩経』の解釈や口頭試問など、困難さを究める試験である。

そして蜀山人は、何回もの試験の後、ついに首席で合格。その後、幕府の勘定所の役人として勤務することとなる。天性の才能を持つ蜀山人ならではの快挙。この時、彼は実に四十七歳もの年齢であった。

太田蜀山人(1749~1823)
江戸牛込で、武士の子として生まれる。十五歳の時、内山賀邸の門に学ぶ。狂歌の名手として名を馳せる。幕府の役人としても勤務。