俳諧の息の根とめん、大矢数(おおやかず)。

井原西鶴 四十二歳

延宝三年(1675年)春、西鶴の妻は、幼い子供たちを残してこの世を去った。俳諧師でもあった彼は、妻の死を悲しみ、その供養として、明け方から日暮れまでたて続けに千句もの句を速吟する。

これは矢数(やかず)俳諧と称され、この後人々にもてはやされ、その記録が競われていった。そして、貞享元年(1684年)西鶴は、今度は俳諧そのものに別れを告げるため、住吉神社の境内で大矢数興行を行う。

「わしも、俳諧は今日で吟じおさめ。もう誰もまねのできん矢数(やかず)を、やらしてもらいます」
この時、西鶴は一昼夜かけて二万三千五百句の俳諧を吟じる。ほぼ三秒半ごとに一句という計算になる。

どんな句が詠まれたか、記録には残っていない。紙に書き記す暇もなく次から次へと詠んだのである。一句詠まれるごとに紙に線を引き、その数を数えたと言われている。

人西鶴、前人未到の大記録。この時、実に四十二歳であった。

井原西鶴(1642~1693)
大坂で生まれる。貞門流の俳諧を学び、俳諧点者となる。談林俳諧の代表的作家として名声を博す。後に浮世草子の著述に専念し、数々の名作を生む。