設楽原にて武田軍団を壊滅させる。

織田信長 四十一歳

甲斐の信玄、死して三年。その子勝頼は、一万四千の軍勢をもって三河の長篠城を包囲した。この時、吉田城にあった家康は、直ちに岐阜の信長に援軍を請うたのであった。

「好機じゃ!武田の騎馬武者をわが軍略で一掃してくれるわ」
天正三年(1575年)五月、信長は岐阜を出発する。

彼は全軍に馬繋ぎ用の棒と縄を持って行くように命じた。そして、設楽原に布陣するや、その棒と縄で三段の馬防柵を設けたのである。

「この程度では、武田の騎馬軍団、防ぎきれるものではございますまい」
そう訊ねる家康に、信長は答えた。
「これは、囮じゃ。釣針である」

午前六時、決戦の火蓋は切って落とされた。突進してくる騎馬武者に、織田の鉄砲隊が一斉射撃する。それをかわす武田方。しかし、その後ろには第二、第三の鉄砲隊が控えていた。

信長は、三千梃の鉄砲を三段に分け、連続射撃を行ったのである。この戦略の前に、かつては最強と言われた武田の騎馬武者は虚しく倒されていった。

信長、この時四十一歳。天下の形勢は、この戦を機に信長へと傾いてゆく。

織田信長(1534~1582)
父信秀の死後、十八歳で家督を継ぐ。桶狭間の戦いで今川を破り、さらに尾張の統一、美濃攻略を成して入京。天下統一への足がかりをつける。