大奥の中心勢力として采配をふるう。

春日局 四十四歳

元和九年(1623年)徳川家光が三代将軍となる。その時家光十九歳、春日局は四十四歳であった。春日局、お福こそ、将軍家光その人を育て上げた乳母である。

家光が将軍職を継ぐには、春日局の並々ならぬ努力があった。乳母として粉骨細心働きながら、自らの本分を忘れず、奢ることはなかった。しかも、世継ぎ問題が起こった時には、彼女が奔走し、事なきを得ていたのである。

「お福、よくぞこのわたしをここまでにしてくれた。この恩は子々孫々忘れはせぬぞ」
と、家光は春日局の手をとって、押しいただくのであった。

「もったいないお言葉。上様、ささ、お顔をお上げくださりませ」
家光は、この乳母に対して、幼い頃から実の母よりも深い敬愛と、感謝の念を注いでいた。以来家光の絶大な信頼の元、春日局は大奥での権勢を広め、その規律を取り締まってゆくのである。

『明良洪範』という本には、「すべて奥向の定法は、皆二位の局(春日局)の制作なりとぞ」とある。江戸城大奥の制度をつくったのは、この春日局であると言われている。

春日局(1579~1643)
明智光秀の家臣斎藤内蔵助利三の娘で、名を福という。十七歳で稲葉正成の後妻になる。三代将軍家光の乳母に召しだされたあとは、江戸城で忠勤にはげむ。