関が原の戦いで内助の功。

山内一豊の妻・千代 四十三歳

時は慶長五年(1600年)、天下分け目の関が原。その直前まで、各大名たちは、豊臣方につくか、徳川方につくかで迷っていた。山内一豊は、その時家康に従って関東にあった。

ちょうどその頃、大坂で一豊の留守を守っていた千代のもとに、豊臣側に従うようにという書状が届いた。彼女は、その書状をすぐに一豊のもとへと届けさせた。

「必ずや家康公に忠義を尽くしますように。私のことは、ご心配なきよう。いざというときには、自害する覚悟でおりますので」

しかも、大坂方の書状は、決して封を切らず、そのまま家康公に差し出すようにと書いた密書まで添えられていたのだ。

一豊は、千代のその機敏な行動に感謝して、書状を家康に差し出す。その功により、一豊は、土佐二十四万石の城主となることができるのである。

内助の功として、後の世にまで語りつがれた一豊の妻千代、四十三歳の頃のエピソードである。

山内一豊の妻・千代(1557~1617)
浅井氏家臣若宮喜助友興の娘。近江に生まれ十五歳のときに山内一豊の妻となる。夫を無名の侍から一国一城の主にした、内助の鏡。