紀州の吉宗、八代将軍となる。

徳川吉宗 三十二歳

享保元年(1716年)紀州藩主吉宗に、将軍職という幸運が舞い込んだ。八代将軍徳川吉宗の誕生である。徳川御三家からはじめて出た将軍である。

吉宗にとっては、紀州の藩主の座でさえも、兄の死により得たものであった。吉宗は側室の子である。もしも、兄の死がなければ、そのまま小大名として一生を終わっていたところであった。

しかし、それだけに、庶民の生活をよく理解し、人を見る目も高かった。紀州藩主になった時も、みずから率先して倹約に務め、殖産事業に力を入れて藩の財政を回復させたのである。

「この度は、紀州一国ではない。天下だ。天がこの吉宗に世直しをせよと命じておるのだ」
江戸城に乗り込んだ吉宗は、さっそく改革に手をつけた。まず、政治の実権を握っていた側近らを退けたのである。

次いで、大岡忠相を南町奉行に抜擢し、倹約令を出し、さらに目安箱を設置して庶民の意見を取り入れるようにもした。世に言う享保の改革である。幕府の政治に持前の度胸と行動力で新風を吹き込んだ将軍吉宗。この時三十二歳であった。

徳川吉宗(1684~1751)
紀伊藩主徳川光貞の子として生まれる。越前丹生の藩主となるが、兄の死で紀伊藩主に。後に将軍を継ぐ。享保の改革により、幕府中興の英主と言われる。