幕府の制限に屈せず、独自の画風を確立。

喜多川歌麿 三十八歳

世は、松平定信の天下。幕政の立て直しを目指した寛政の改革の真っ最中であった。

この時、幕府は町人のぜいたくを禁じ、厳しい締めつけを行っていた。出版界にも、当然この締めつけは及んでいた。男女間のことや遊郭のことを題材とした本や浮世絵はすべて禁じられ、洒落本出版の咎(とが)で版元は、財産没収。人気作家の山東京伝は、手鎖五十日の刑を受けていた。

しかし、歌麿は、負けてはいなかった。なんとか法の網の目をくぐって、世の人々の心を慰める絵は描けないかと考えていた。こんな時代こそ、気分が晴れる娯楽が庶民には必要なのだ。

「肌が見えるのはいかん、足を出すのはけしからん、と言うなら、顔をみせてやろうじゃないか。顔を見せてけしからんだったら、明日から覆面して歩かなくちゃいけないってことになる。そうだ、おなごのちょっとした顔つきやしぐさ、あの色っぽさを、絵にしてやろう」

こうして、歌麿独特の、顔をクローズアップした絵が生まれる。世に言う『大首絵』である。歌麿三十八歳の時であった。

喜多川歌麿(1753~1806)
出生地は不明。浄瑠璃本の挿絵、役者絵を描いた後、版元の蔦屋に見出され、黄表紙、洒落本の挿絵を描く。後に『大首絵』を発表。数々の作品を残す。