津田梅子 三十四歳
津田梅子が、明治三十一年(1898年)アメリカのデンバーで行われた万国婦人連合大会に日本代表として出席したのは、三十四歳の時だった。このときから梅子は、女子高等専門教育の発展に精力を注ぐことを固く決意する。
「本当に英語が学べる女学校をつくろう。女学校と言えば、花嫁修業の代わりのようなのが多いけど、わたしは、生きた英語が学べる学校にするわ」
そして、梅子の長いアメリカ留学の経験を生かし、英語教育を通じて、個性豊かな婦人を養成するという趣旨で東京麹町に開校したのが、私立女子英学塾、後の津田塾大学である。
二回にわたる渡米で得た英語の知識と、国際的なマナー。さらに、アメリカを肌で感じてきた梅子ならではの新しい感覚を、彼女は、教育の場に注ぎ出したのである。ここに、英語教育・個性尊重教育において特色のある津田塾の塾風が生まれる。
幼い頃から、アメリカという異文化に囲まれて成長した梅子。彼女のその勇気と情熱が、この時大きな実を結ぶ。
津田梅子(1864~1929)
岩倉具視遺外使節一行とともに八歳で渡米。帰国後、女子英学塾(津田塾大)を設立し、女子高等専門教育の発展に精力を注ぐ。