坂田藤十郎 三十一歳
藤十郎は、その時、心に燃えるものがあった。
「何とか、わしだけのものをやってみたい。大坂のお客衆の喜ぶ芝居があるはずじゃ」
当時、江戸では市川海老蔵が坂田の金時をやって大当たりをとっていた。いわゆる荒事である。しかし藤十郎は、ここ大坂では、江戸の芝居と一味違ったものがやってみたかったのだ。
延宝六年(1678年)正月、大坂でひとりの女性が世を去る。大坂新町の扇屋の太夫夕霧である。夕霧は、大坂で最も人気があり、庶民のヒロイン的な存在でもあった。
「こ、これや!夕霧や!」
藤十郎は、この夕霧太夫の死をヒントに、『夕霧名残の正月』という芝居を書いた。そして、夕霧の死んだ翌月に、それを自ら初演するのである。
色里を背景に、勘当された大店の息子と夕霧太夫との濃やかな愛を表現したこの芝居は、大当たり。庶民は喝采してその新しい芝居を受け入れたのである。
江戸の荒事に対する大坂の和事のはじまりである。この時、藤十郎三十一歳であった。
坂田藤十郎(1647~1709)
京都に生まれる。元禄期の上方歌舞伎を代表する役者。恋愛を主題とし、写実的な台詞を特徴とする和事を創始する。後に、京の万太夫座の座元となる。