『かげろふ日記』につづられた、女の愛。

右大将道綱の母 三十八歳

平安時代。当時の人々、特に貴族たちの結婚形態は、一夫多妻が普通であった。男が女の家に赴く、いわゆる妻問婚(つまどいこん)である。

道綱の母もそうであった。夫は、藤原宗家の御曹司藤原兼家。彼女は第二夫人であった。子を育てながら、夫の来るのをただひたすら待つ生活であった。

夫が、別の新しい女の元に通う噂を聞けば嫉妬し、許せないといら立つ。そして、夫が来ると憎しみを忘れて愛に身を焦がす。しかし、年をとるにつれ、彼女は、そんな自分自身を静かに眺めるようになってくる。

「夫の来るのを見て、あるときは怒り、またあるときは喜ぶ。まるで、はかないかげろうのようなものかもしれません」

彼女は、そんな思いを正直に日記につづっていた。天歴八年(954年)にはじまり、その記述は天延二年(974年)に終わる。道綱の母、三十八歳の時である。これぞ世に名高い『かげろふ日記』である。

『なほものはかなきをおもへば、あるかなきかの心ちする、かげろふのにき(日記)といふべし』

右大将道綱の母(936?~995?)
陸奥守藤原倫理寧(ともやす)の子として生まれる。藤原兼家の夫となり、道綱を生む。『かげろふ日記』は、告白文学として評価されている。