敵に塩を送る。

上杉謙信 三十八歳

永禄十一年(1568年)、謙信の宿命のライバルである武田信玄は、駿河へ攻め入っていた。

だが、駿河の今川は相模の北条と同盟を結び、甲斐へ送る塩を留めるという戦法に出た。兵糧攻めである。そして、越後にも、この塩留めに加わるよう申し入れがあった。しかし、謙信は

「兵糧攻めなどと言う卑怯な法があるか!それは、義ではない。我が信玄殿と争うは、戦場においてのみ!」
と、塩留めの要請をはねつけたのである。

「信玄殿に越後の塩をさっそく送るのじゃ。困窮する者に助けを差しのべるは仏の道である」

謙信は、『卿と争うところは弓箭にあり、何ぞ米塩にあらんや』との手紙をつけて、信玄の属下にあった信州へ塩を送るのであった。世に言う、“敵に塩を送る”である。

幼い頃に林泉寺に入り、厳しい戒律の日々を送った謙信。裏切りなどめずらしくもなかった戦国の世にあって、道義を重んじた謙信ならではの逸話と言えよう。この時三十八歳であった。

上杉謙信(1530~1578)
越後守護代長尾為景の子として生まれる。家督を継ぎ越後守護代となり、上杉氏を継いで関東管領となる。五度川中島で信玄と戦うが、勝敗は決しなかった。