『鞭声粛々 夜河を過る』。

上杉謙信 三十一歳

川中島の戦いで最も激しかったのは、永祿四年(1561)の第四回目のものとされている。上杉謙信は、まず川中島の南「妻女山」に陣を構えた。
この時、謙信の宿敵武田信玄は、夜討ちをかけ、川中島に謙信を追い出す作戦を立てていた。しかし、謙信は夜の霧に乗じて密かに川中島へと移動し、陣をしいてしまう。

後に江戸時代の詩人頼山陽は、この時の様子を詩に吟じた。名高い『鞭声粛々、夜河を過る』である。

朝、霧が晴れはじめると、信玄は、川中島に上杉の軍旗を見た。信玄の驚きは如何ばかりであったろう。ここにおいて、両軍は真向から激突する。

「本陣じゃ、本陣を突けっ!信玄に天罰をくらわせてやるのだ!」
謙信の軍は、信玄の本陣目指して殺到。謙信自身も行人包みで顔を包み、長刀を抜いて、本陣へと突進していった。

すると、諏訪法性の兜をかぶり、床几に腰をかける信玄の姿が謙信の目に入ったのである。謙信は迷わず切りつけた。その謙信の一刀を、鉄の軍配団扇でハッシと受け止める信玄。

合戦史の華とも言える、謙信、信玄の一騎打ち。謙信三十一歳、信玄四十歳の時と言う。

上杉謙信(1530~1578)
越後守護代長尾為景の子として生まれる。家督を継ぎ越後守護代となり、上杉氏を継いで関東管領となる。五度川中島で信玄と戦うが、勝敗は決しなかった。