大原寂光院にて、後白河法皇の訪問を受ける。

建礼門院徳子 三十一歳

文治元年(1185年)三月、栄華を誇った平家一門が壇の浦で滅びた。

その戦の最中に、もはやこれまでと入水した建礼門院徳子は、源氏の手により、海の中から引き上げられる。建礼門院徳子、平家とともに海に沈んでいった幼い帝、安徳天皇の母親であった。

彼女は、この後尼となり、大原の寂光院でその余生を送ることとなる。

翌文治二年、人里離れたこの尼寺に、後白河法皇が建礼門院を訪ねられた。法皇はそこで、わずかな侍女と貧しい暮らしをする女院にお会いになる。

「世が世なれば帝の母とあがめられるものを。なんとふびんなものよ」
朝廷での徳子を知る法皇にとって、尼僧姿の徳子は、まさに涙を止められない光景であった。

「わたくしは、亡き帝と平家一門の菩提を弔うため、ここにこうして生き恥をさらしております。今はもう、昔の思い出とともに暮らしていとうごさいます」
と、しみじみ物語する徳子。

ここ寂光院は、運命の波に翻弄された彼女の最後のやすらぎの場であったのかもしれない。この時、徳子三十一歳であった。

建礼門院徳子(1155~1213)
平清盛の娘。高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生む。後、平家一門とともに壇ノ浦で入水するが、助けられ出家する。