信玄と三方ヶ原に戦う。

徳川家康 三十歳

元亀三年(1572年)甲斐の武田信玄が、四万五千の大軍を擁してついに上洛を開始した。

名にし負う武田軍団である。家康が戦いを挑んでも、負けることは火を見るよりも明らかだった。しかし、家康は、武田軍が我が領土を通過するのを黙って見ているわけにはいかなかった。

「三河武士の意気を見せん。者ども我につづけ!」
家康は、果敢に戦いを挑んでいった。世に言う三方ヶ原の戦いである。

案の定、家康は徹底的に討ち負かされ、浜松城へ退却した。だが、家康は退却した後も、わざと城の城門を開け放ち、大きな篝火をあかあかと焚かせた。

「我にはまだ戦意あり、攻めるなら攻めてみよ」
という意思表示である。

まさに、大胆不敵。さすがの武田軍団も恐れをなして近づかなかった。武田の将も、三河武士の勇猛さには感服し、
「徳川軍の戦死者は、みな敵にうしろを見せずにたおれていた」と述べている。

家康三十歳、この戦より『海道一の弓取り』として名を馳せる。

徳川家康(1543~1616)
三河国岡崎の生まれ。織田信長、豊臣秀吉を継いで天下統一を成す。江戸幕府の初代将軍となり、幕藩体制三百年の基礎を築く。